2010年01月13日

活動家:軍がヘブロン近くで植樹を妨げる

2010年01月11日月曜日

ヘブロン - Ma'an - 伝えられるところによれば、イスラエル軍は、月曜日、ヘブロンに近いベイト・ウンマル村のAbu Ar-Rish地区で、パレスチナ農夫が1,500株のオリーヴを植栽するのを妨げた。

「パレスチナ農夫が、彼らの土地で働くことを許すとのイスラエル裁判所の決定にもかかわらず、イスラエル軍は、今日、農夫が(オリーヴを)植えるのを禁止した」と、パレスチナ連帯プロジェクトの報道官、ムハマド・アワドは語った。「軍は、そこが軍事閉鎖地区と言った」と、アワドは語った。

 報道官は、イスラエル軍がスタン弾を使用し、問題の農地に通じる地域を閉鎖したとき、ジャーナリスト4人とアメリカ人活動家3人が拘留されたと付け加えた。

 イスラエル軍報道官は、事件をまったく知らないと語った。

原文:Ma'an News Agency

 イスラエル軍による「軍事閉鎖地区」は恣意的なもので、農夫たちが植栽を始めようとすると、そこが急遽「軍事閉鎖地区」に指定される。現場での対応だから、もちろん、イスラエル軍報道官は知らない。
 YWCAとYMCAの共同事業、オリーヴ植樹キャンペーンの去年の植樹プログラムでも、軍は植樹を妨げるため「軍事閉鎖地区」と言ってきた。「軍事閉鎖地区」指定されたのは、その日だった。『2009年オリーヴ植樹プログラム-8』参照
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パレスチナ職員:イスラエルが西岸の150人のアラブ家屋を破壊

2010年01月10日
ロイター

 イスラエル治安部隊は、日曜日、西岸のおよそ150人のパレスチナ人の家となっていたシェルターを打ち倒した、とパレスチナ職員は語った。

 西岸のイスラエル当局の民事行政報道官は、14戸の「違法に建てられた構造物は取り外された」と語った。
 それらは軍事訓練場に建てられており、「居合わせるものの命を危険にさらす」と、報道官、Lee Hiromotoは語った。

 地元のパレスチナ職員、アテフ・ハニーニは、イスラエルの正当化を議論し、パレスチナ農耕社会は、ナブルスの東、タナに何十年も住んできたと語った。

(中略)

 パレスチナとの暫定的和平合意で、イスラエルは、軍と文民による完全な支配を、「エリアC」として知られる区域、西岸のほぼ60パーセントに及ぼす。

 国連人道問題調整事務所は、12月の報告で、エリアCへのイスラエルの拘束的計画体制が、何万人ものパレスチナ人が、家屋が破壊されるリスクを伴う、認可なしで建設するより他、選択肢のないまま残されることを意味したと述べた。
 国連組織体は、2009年に、180戸のパレスチナ人所有のエリアCの構造物の破壊を記録したと述べた。破壊は、167人の子どもを含む319人のパレスチナ人を強制退去させた。

 パレスチナ人は、西岸とガザ回廊に、東エルサレムを首都とする独立パレスチナ国家を望んでいる。

全文:Haaretz.com

アーカイヴ:国連:イスラエルにパレスチナ家屋破壊を停止するよう要請(2009年10月31日)
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わたしはユースフ、これは弟:パレスチナ人についてのあるパレスチナ人の物語

1948年の戦争で、何千人ものパレスチナ人が、再び戻ることなくその家から引きはがされ、劇作家、アミル・ニザル・ズアビは、彼らの物語を語ると決意した

ロリー・マッカーシー
guardian.co.uk
2010年1月10日日曜日

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エルサレムのアミル・ニザル・ズアビ
写真:Gali Tibbon


 それは60年前だったが、戦争の降灰は続く。数カ月前、ひとつの急速な反乱、右翼のイスラエル党派が、パレスチナ人に、1948年のナクバ、彼らの災厄(しかし、イスラエル人が彼らの独立闘争の絶頂、その国家創設を歓呼する)の記念を禁止する法案を導入しようとした。結局、法はおそらく薄められるだろうが、原理は幅広く支持されているように見える。ほとんどのイスラエル人に関する限り、彼らは、1948年に勝利し、パレスチナ人は負け、そして歴史は動いた。もちろん、動かなかったことを除いて。

 来週、見逃せない新たな演劇が、ロンドンのヤング・ヴィックで始まり、戦争を民衆の詮索に戻す不安にする物語の突進を約束する。33歳の、この脚本家で演出家のアミル・ニザル・ズアビは、戻ることなく、いかに何十万人ものパレスチナ人がその家から引きはがされたかの物語が脳裏を去らないナクバの物語で育ったパレスチナ人の世代だ。「わたしたちは、すべてにひそかな仲間としてそれを持っている」と、ズアビは語る。「わたしたち2人が、座ってコーヒーを飲む時、3人目はミスター・ナクバだろう」。

 ズアビは、イスラエル内に住む多くのパレスチナ住民がいる、そして、破壊された村々を含む、1948年戦争の跡が周り中にある、ガリラヤのナザレで育った。破壊された村の1つはバイッサムーン、小さなパレスチナ・コミュニティだった。ズアビが、彼の演劇、2人の兄弟、不運な恋、戦争で引き起こされた混乱と悲劇を語る『わたしはユースフ、これは弟』の舞台としたのがこの村である。

 演劇は、作り話の重なりをこそぎ落とす個人的調査として始まったとズアビは語る。「人びとはなぜ離れると決めたのか? あるいは、彼らは離れると決めたのか? あなたは何をしたのか?」イスラエルに住むズアビは、物語が「口をつぐませられた」と知った:「根源的罪なので、それは大いなるタブーである。それはここでのすべての問題の母親だ。彼らは、それについて話したくない」。

(後略:長いので)

全文:guardian.co.uk

アーカイヴ:イスラエルがアラビア語教科書から1948年「ナクバ」を削除(2009年07月24日)
posted by mizya at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | article | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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