2011年12月03日

バッシム・タミミ裁判での目撃者たち:ぼくたちは尋問者らにより、彼に罪を負わせるよう指図された

2011年11月29日

15歳のモアタッシム・タミミと20歳のウダイ・タミミは、彼らが睡眠を奪われ、尋問の前に、言うことを指示されたと法廷で語った。ナビ・サレ抗議組織者、バッシム・タミミは、8か月以上刑務所にいた。

ナビ・サレの西岸抗議組織者、バッシム・タミミの公判が、検察側の主な証人 - 14歳のイスラーム・ダルアッユーブが、彼の証言が監禁下で与えられたと主張して、昨日証言した後、今日、オフェル軍事法廷で再開された。

今日、最初に立ったのは、木曜日の逮捕に続き、囚人服で連れてこられたナビ・サレの15歳、モアタッシム・タミミだった。軍検察官に、デモンストレーション組織者に関し、尋問で彼が言ったことを尋ねられて、彼は、「ぼくは殴られて『彼に罪を負わせるよう』告げられ、同様、写真を見せられた」と語った。少年はその後、「彼らはぼくに、彼に罪を負わせるよう強い、『それはバッシムと言え』とぼくに言った」と、法廷で証言した。

ヴィデオに記録された15歳の尋問は、少年に命じる尋問者がいる:「何が起こったか言え(...)村の誰がお前に石を投げるようそそのかした。(...)(叫び声)お前はそそのかされた! お前は... お前は幼い少年だ、ひとにそそのかされる。大人たちだ、俺たちは知ってる。お前をそそのかしたのは大人たちだ、そうだろう?」 尋問者はまた、「俺たちはお前をからかっているのじゃない。俺たちはお前がいい子で、大人たちにそそのかされたと知ってる。だからお前は何でも俺たちに言わなければならない。後で、俺はお前が従ったと士官に言い、彼らは決めるだろう。分ったな?」とも言うのが見られる。同様の場面が、記録を通して繰り返される。

(略:長い、ここまでで1/5ほど)

全文:Popular Struggle Coordination Committee

アーカイヴ:子どもたちがイスラエル軍に起こされる(04月13日)

     :イスラエル裁判所が子どもの投獄延長(02月07日)

 ニッポンの冤罪事件の作り方と酷似している。如何に占領勢力とはいえ、このようなことが、被占領のパレスチナ人に対して行われることは許されない。悪名高いイスラエルといえども、イスラエル国内での犯罪捜査にこの手法を採用しているわけではない。ところがニッポン警察・検察は、この手法を自国民に採用している。ニッポン警察・検察は、イスラエルよりたちが悪い。
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アッバス、ファイヤド、バルグーティが「思索するトップ100人」の中

2011年11月29日火曜日

ベツレヘム (Ma'an) -- マフムード・アッバス大統領、サラーム・ファイヤドパレスチナ自治政府首相、ムスタファ・バルグーティ議員は、Foreign Policy誌の2011年の思索のひと上位100人に入った。

(略)

アッバスとファイヤドは共に28番を占める:「パレスチナがいつか国家になるなら、それは、このふたりと確固たる暴力の拒絶に多くを負うだろう」と、FP (Foreign Policy) は断言する。

(略)

一方、パレスチナ民族イニシアティヴの共同創立者で民衆闘争活動家、ムスタファ・バルグーティは、「パレスチナのための異なる政策信条」で第84にリストされる。

「他の誰より、政治家で人権活動家、ムスタファ・バルグーティは、イスラエル占領を非合法化するための非暴力戦術を強調し、パレスチナ民族運動がその理想に応えることを要求する迂回路を開拓した」と、誌は述べる。

元モサドチーフ、Meir Daganは、リストされた唯一のイスラエル政府関係者で、「ベンヤミン・ネタニアフに抵抗するイスラエル最後の人」として63番目を占める。

(略)

全文:Ma'an News Agency

 因にリストされたニッポンの最高位は、アッバスとファイヤドの次、29番目に福島瑞穂・海渡雄一(夫妻、といっていいかどうか、ともかくも、夫婦別姓の実践者):
http://www.foreignpolicy.com/2011globalthinkers
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あるものにとって、トンネルはガザへの唯一の道

タグリッド・アタッラ
2011年11月28日月曜日

ラファ検問所の解放から数か月、パレスチナ人のあるものは、まだガザに入るのにトンネルを使わなければならない。

ガザ - イブラヒーム・アブディーブは、彼の失われた祖国の光に、そして、再び息子に会うことはないだろうと考えていた両親の腕の中に、トンネルから現れた。

パレスチナ系アイルランド、アブディーブは、離れていた数十年後、ガザに入り家族に会うために、本の中のトリックすべてを試み、法的抜け穴すべてを使い尽くした。

実際、アブディーブが、2011年6月1日にラファ国境検問所を開くとのエジプトの決定を聞くや否や、ガザに入る彼の望みは再燃したが、彼は、ことさら先立つ試みの失敗の後、希望は砕かれると予測した。

7年前、彼は、ガザに入るのを待って、ベイト・ハヌーン検問所(エレツ検問所:訳注)前で6時間を過ごしたが、占領軍は彼を通過させなかった。

彼はそして、不本意ながら、西岸の親類何人かと休暇を過ごすと決めた。彼は、再び彼の運試しを企てたが、無駄だった。

アブディーブは、両親に会わずに、彼の住むアイルランドに帰った。しかし、エジプトからの良いニュースを聞くとすぐ、彼は、ラファ検問所経由でガザに入ることができるかどうか確かめるためエジプト当局に連絡をとった。

しかし大使館は、情報を持っていなかった。彼は、大使館が問題について問い合わせることを、注意深く要請した。

(以下、少々かいつまんだ訳で)

彼は、理由を問われ、ガザへのイスラエルによる封鎖以来会っていない老いた父親を訪問したいと答えた。

エジプト大使館に書簡を送った40日後、彼はラファ検問所からガザに入るのを許可する返事を受け取った。

パレスチナ身分証明書を所有する兄弟ふたりと、アブディーブは、ラファ検問所に到着し、エジプト職員に書類すべてを渡した。

しかし、書類を見ようともせず職員は、彼の身分証明書を求めた。

アブディーブは、アイルランドのパスポートとガザ入域を認めるアイルランド駐在エジプト大使の書簡を持っていると応えた。職員は書簡を無視し、彼がそれ以上行くのを止めた。

アブディーブを気の毒に思ったエジプト職員のひとりが、トンネル経由でガザに入れると、彼の兄弟に示唆した。

(略)

1か月後、彼は、入ったのと同じ方法でガザを離れた。次回、彼は、彼の人間性を尊重するような方法、合法的に入り出ることが許されるよう望む。

全文:alakhbar
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