2012年01月09日

ガザで戦争はなかった、それは大虐殺だった

2012年01月08日

ノーマン・フィンケルシュタインは、細心の注意を払うものにとって明白なことは、ガザで戦争はなかった、そこで起こったことは、大虐殺だったと、説明する。


twah72

原文:PULSE


 フィンケルシュタインは、ガザの密集地、学校、市場、病院に降り注いだ白リン弾にも言及している。だからアーカイヴはこれ:
イスラエルがガザのリンに関し国連に苦情提出(01月07日)
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パレスチナの子どもたちは抑圧的隔離で拘留される

2012年01月05日木曜日
Stephen Lendman

DCI/パレスチナは、国際法原則によれば、「パレスチナの子どもたちの権利を促進し保護するために(捧げられた)国際的非-政府子ども権利組織で運動の国家的部門である」。

12月28日、DCI/パレスチナは、「イスラエル拘留下にあるパレスチナの子どもたちへの独房監禁の使用」という表題の申し立てを、いくつかの国連当局に提出した。それはことさら、イスラエルのアルジャラメとペタ・ティクヴァ尋問センターに捕らえられる子ども5人のためのものだ。

彼らのケースは、2008年2月以来、他の29件に続く。どちらの施設も「独房監禁が日常的に使用される」。

定義に関する普遍的合意は存在しないものの、独房監禁の使用と影響に関するイスタンブール声明は、毎日22時間から24時間、肉体的に囚人を房に隔離することと、定義する。人間との接触は、量的・質的刺激を含め、最小化される。

有害な心理的・肉体的影響は、十分立証されている。それらは含む:

激しい不安;
パニック発作;
無気力;
不眠症;
悪夢;
めまい;
制御困難時の道理なき怒り;
混乱;
社会生活からの撤退;
記憶喪失;
食欲不振;
妄想と幻覚;
損傷;
深刻なあきらめと絶望:
自殺思考;
パラノイア;そして
幽閉の外部の通常に生きるための多くの全くの機能障害状況と無力。

その結果、拷問に関する国連特別報告官、Juan Mendezは、子どもたちへの完全なる禁止を求めた。それを「拷問、あるいは残酷、冷酷、あるいは品位を貶める扱い、あるいは虐待」と呼び、彼は、すべてのひとに対してその禁止を要求しないまでも妨げた。

2007年、子どもの権利国連委員会は、「厳密に禁止」される実践を促した。

イスラエルはとがめなく国際法すべてをはねつける

イスラエルはしばしば、大人も子どもも、顕著にパレスチナ人を、隔離する。最も一般的に使用される施設は、エルサレムのアルモスコビーヤ尋問センター、テルアヴィヴ近くのペタ・ティクヴァ、そしてハイファ近くのアルジャラメを含む。

イスラエル刑務所業務 (IPS)、イスラエル警備機関 (ISA)、イスラエル警察が、これら施設を管理する。

2008年2月から2011年11月まで、DCI/パレスチナは、34件の子ども虐待事件を記録した。彼らは、「残酷、冷酷、あるいは品位を貶める扱い、あるいは虐待、そしていくつかの場合、拷問協定、子どもの権利条約、市民的・政治的権利条約、第4ジュネーヴ条約に反する拷問」を耐え忍んだ。

イスラエルは、とがめなく、戦争、占領、そして基本的人道と人権に関係するそれらを含む、国際法すべてをはねつける。

アルジャラメで、子どもたちは、2×3メートルの房に囚われる。2009年、ひとりの子どもは、65日間の懲罰に耐えた。彼らはみな、コンクリート・ベッドか、あるいは床の、薄く、汚く、悪臭の臭いのマットレスに眠る。食事は、彼らから人間の接触を奪う、扉のフラップを通り抜ける。

アルジャラメの「36号房は、(すべての隔離房同様)寄りかかることから子どもたちを妨げる鋭い突起」がある。窓はなく、1日に24時間、ほの暗い内部照明の人工光のみだ。

その結果、「子どもたちのある者は、眼の裏の痛みと、不利な心理的影響を被る」。

延長される隔離、痛い手枷足枷、肉体的暴力、拷問を含む過酷な扱いは、自白を引出すために使用される。

アルジャラメや他の尋問施設の子どもたちは、第4ジュネーヴ条約と他の国際法に反し、弁護士へのアクセスや親族の訪問を通常否定される。

DCI/パレスチナは、パレスチナの子ども5人のための申し立てを提出した。彼らは、イニシャル、年齢、性別、ID番号、出生地でのみ識別された。

2011年10月15日、イスラエル兵士らは、午前2時、自宅からOAを逮捕した。彼は、目隠しされ、痛みを伴う手枷をされて、軍用車輌に押し込められ、パレスチナのフワラ尋問センターに連れて行かれ、夜明けまで地面に座ることを強いられ、トイレを使用する許可を拒絶された。

その後の朝、彼は、第4ジュネーヴ条約に反して、イスラエルのペタ・ティクヴァ尋問センターに連れて行かれた。彼は、裸にされ捜査され、法定弁護人を与えられなかった。椅子に手を結わえられて、彼は、「モーリス」と呼ばれる男に尋問された。

イスラエルのジープに火炎瓶を投げたと責められ、彼はそれを否定した。尋問の2時間後、彼は、隔離され、それを次のように説明した:

「それは、床にマットレス、トイレ、コンクリートの腰掛けふたつのとても小さな房だった。どんな窓もなく、エアコン用の穴だけ。エアコンのためにとても寒かった。1日24時間、黄色の明かりが点っていて、ぼくは眠れなかった。ぼくはその房に2日拘留され、アルジャラメに移送された」。

そこで、彼は、5日間、隔離された。彼の拘留は延長された。彼は、法廷に居るのでなく、弁護士が彼を代理するのか知らなかった。彼は次に、ペタ・ティクヴァに送り返され、同一条件下でさらに9日間拘束され、認める前に2度尋問された、語るところ:

「ぼくは、とても悪い精神状態で、だから、認めようと決めた。ぼくは、軍ジープに、火炎瓶と石を投げたと認めた」、犯していなかったにも拘らず。

16日間隔離され、彼は現在、イスラエルのメギド刑務所にいる。

DCI/パレスチナが代理する他の者も、似通ったストーリーを語った。彼らは、不正に非難され、逮捕され、隔離され、総体的に厳しく取り扱われた。イスラエルは、子どもたちを、10歳の幼い者さえ、大人のように扱う。

国連子どもの権利条約 (CRC) を含め、国際法は、悲惨なまでに違反された。CRCの第37条(b)は述べる:

「子どもの逮捕、拘留あるいは投獄...最後の手段の措置としてのみ、最短の適切な期間で使用されるものとする」。

実際は、パレスチナの子どもたちは日常的に、検問所で、学校の往復、路上で、オリーヴ畑を手入れしていて、遊んでいて、そして(もっとも一般的に)真夜中に家庭で、逮捕される。

通常、それは真夜中から午前4時までだ。家族は介入しないよう脅される。試みるなら、彼らは、攻撃され、天候に関わらず夜着のまま通りに出され、説明も与えられない。

典型的に、逮捕は、無法で暴力的だ。家庭は、告知もなく押し入られる。家財は、破損されるか盗まれる。子どもたちは、目隠しされ、手枷され、しばしば殴られ、そしてジープに、時々顔を下に押し込められる。

尋問センターで、殴打、暴言、脅迫を含め、非人道的取り扱いは継続する。もっともしばしば、子どもたちが読めない、あるいは理解できないヘブライ語の自白に署名して尋問が終了するまで、弁護士は立ち会わない。ひとたび得られたなら、国際法下承認しがたい、拷問が引出した証言であろうと、それらは有罪宣告に使用される。

(略:ここまでで70パーセントほどは翻訳している、長い、翻訳も飽きたのだから、読むのだって飽きるに違いない)

全文:SteveLendmanBlog
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2012年01月08日

イスラエル軍がベツレヘムの検問所で男を「撃ち、負傷させた」

2012年01月05日木曜日

ベツレヘム (Ma'an) -- イスラエル軍が、水曜日、ベツレヘム近くの検問所で、男を撃ち負傷させたと、地元ラジオは報じた。

東エルサレム、アルエイザリアのムンケス・ムーサ・ルミは、手と脚に負傷したが、パレスチナの赤三日月の援助を拒絶したと、救急業務の管理者は、Radio Bethlehem 2000に語った。

アブドゥル・ハリム・アル-ジャーフラは、医療隊が、男が負傷したのでその地区に救急車を送るよう知らせを受けたと語った。

ルミは、赤三日月により治療されるのを拒絶し、彼の負傷の責任はイスラエル軍にあるのだから、イスラエルの病院に搬送されると主張したと、アル-ジャーフラは語った。

コンテナー検問所は、その事件後、しばらく閉鎖された。

イスラエル軍報道官は、コメントを求める呼びかけに即答しなかった。

原文:Ma'an News Agency


 素朴な疑問、彼はその後、イスラエルの病院に搬送されたのだろうか? 別名「炎の渓谷」、コンテナー検問所は悪名高い。
 わたしたち、「占領に反対する芸術家たち」も、この検問所を通過できなかった。通過できなかったときのことを、「もしローザ・パークスが記者会見を行うことができればこのように見えただろう」の掲載記事の最後にコメントとして載せている。
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フランス裁判所が父親の腕の中で撃たれた子どものファイル調査

2012年01月05日木曜日
Saed Bannoura - IMEMC & Agencies

2000年9月30日、父親の膝で、イスラエル軍の砲火からの避難を求めながら(父親も相当数撃たれた)、繰り返し撃たれて死んだモハマド・アッドッラ、12歳の事件を、フランス裁判所は調べるだろう。

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11年前、フランス記者、Sharl Anderlanは、射撃に居合わせ、そして、彼のパレスチナ人カメラマン、タラール・アブラフマと共に、事件を録画した。射撃が、幾人か、そしてやはり事件を目撃した記者の前で、日光溢れる中で起こったという事実にも拘らず、Anderlanは後に、ヴィデオをでっち上げたとして告訴された。

モハマド・ジャマル・アッドッラは、1988年11月22日に生まれ、2000年9月30日に射殺された。彼と父親は、ガザのサラハッディーン通りを歩いていた。

射撃が始まったとき、彼らはコンクリート樽の陰に避難しようと試み、父親は、彼が子どもと一緒の民間人と示そうとして、兵士に手を振り始めまたが、射撃は止まらなかった。

父親は、完全に子どもを庇護することができず、彼らのどちらも相当数の実弾により撃たれた。

射撃から2週間後、France 2 のカメラマン、タラール・アブラフマは、イスラエル兵士らが、故意に子どもとその父親に発砲したと述べる宣誓供述書に署名した。

彼はさらに、兵士らが子どもに向け、「一度でなく何度も」発砲していたと述べた。彼はまた、兵士らがまた、パレスチナ警官と、30メートル離れたパレスチナ警察署にも発砲していたと語った。

アッドッラは、第二次パレスチナ・インティファーダが始まった僅か数日後、射殺された。元イスラエル首相、アリエル・シャロンが、彼の武装ボディガードと共に、被占領東エルサレム、アルアクサーモスクに挑発的訪問を行なった後、暴動は始まった。

France 2記者、Sharl Anderlanと、彼のパレスチナ人カメラマン、タラール・アブラフマは、射撃の徹底的調査を行ない、アッドッラと彼の父親が、イスラエル兵士らにより撃たれたと示す彼らのオリジナル・フィルムをスタンバイした。

子どもを庇護する父親、そして次に撃たれるヴィデオのありにままのイメージは、民間人を標的とするイスラエル軍の傾向を表わして、国際的に有名になった。

ヴィデオにより引き起こされた国際的抗議への応答で、イスラエルは、アッドッラを殺した発砲は、軍が配置された方向から来たのでないと繰り返し主張し、そして、シオニストロビーのある者は、ヴィデオと写真はでっち上げられたと主張さえした。

2004年、Philippe Karsenty、「Media Ratings」のトップは、子どもは「殺されておらず、彼が、ガザの市場でトマトを買うのが見られた」との主張を含む、子どもの致命的射撃を否定することにささげられた、反撃報告とヴィデオのいくつかを公表した。

2007年、訴訟が、ヴィデオはでっち上げられたと主張して、France 2に対して提出された。これを受けて、フランスチャンネルは、訴訟が、現実の人道的苦痛から世界の注意をそらす試みと語った。

同年11月、彼(Karsenty)が「いっぱい食わせる放送をした」と局を公然と非難した後、France 2は、名誉毀損でKarsentyを訴え、France 2は、勝訴したが、Karsentyは上告し、裁判所は、完全なフィルムを見ることを要求した。

France 2は、致命的発砲の18分のヴィデオフィルムを既に提出したが、控訴裁判所は、フィルムを要求したにも拘らず、ヴィデオの内容や射撃の他の証拠を調べなかった。

代わりに控訴裁判所は、Karsentyが「彼の批判の権利を行使し、これらの権利を侵害しなかった」と語り、名誉毀損の訴えを却下した。

France 2は、却下を上告し、来る2月、問題は裁判所により審議されるだろう。

原文:International Middle East Media Center


 ラマッラのハリール・サカーキニー文化センターで、当時の所長、アーディラ・ラーイディのコンセプトによる、2000年9月29日に始まった第二次インティファーダの中で犠牲となった最初の100人を追悼する展覧会が、2001年2月に開催された。犠牲者の写真と残した品を透明のアクリルの立方体に収めて展示し、その人生が、カタログに綴られた。インティファーダ開始の翌日、9月30日に殺されたモハマド・アッドッラは、殆ど最初の犠牲者だった。この展覧会は、アラブ諸国を巡回し、2003年、日本にも招聘され、東京、京都、沖縄などを巡回した。モハマドの遺品として家族から提供されたのは「運動靴」だった。運動靴が、アクリルの立方体に入れられた。
 批判の権利行使と中傷は同じでない。2001年に、その遺品が展示されたモハマドが、2004年に「ガザの市場でトマトを買う」のは難しい。虚偽は、死者への冒涜に等しく、批判の権利行使の範疇を逸脱している。フランスの司法はどうなっているのだろう。まあ、ニッポンの司法も三権分立など絵に描いた餅、司法が信頼を失って久しいが、フランスのこの裁判の行方を注視したい。
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2012年01月07日

イスラエルがガザのリンに関し国連に苦情提出

2012年01月05日木曜日

イスラエル南部の地方議会議長は、ガザから発砲された迫撃砲に、禁止物質、白リンが含まれると分かった後、国連に苦情を提出した。

13,000人の人口を有するエシュコル地方議会に着弾した迫撃砲2発に、人口密集地での使用を国際法により禁止する白リンが含まれていた。リンは、激しい火傷や他の負傷を引き起こし得る。

伝えられるところによれば、ガザからイスラエルに発砲された迫撃砲に白リンが見つかったのは、4回目とのこと。- jta

原文:Jweekly.com

アーカイヴ:イスラエル軍:我々はガザ軍事作戦を新兵器実験に使用(2011年05月09日)


 イスラエルはともかく、エシュコル地方議会議長は、白リンの人口密集地での使用を国際法が禁止していることを知っていたらしい。2008年から2009年のガザへの攻撃で、イスラエルが、市街地に数限りない白リン弾を投下したことを、この議長は覚えているだろうか。あろうことか、国連、UNRWAが運営する学校にまで白リン弾を投下し、学校に避難していた多くの市民が殺戮された。ガザからの迫撃砲が、誰をも殺戮せず誰をも負傷させなかったことを喜びたい。
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2009年1月5日:アマル・アッサムーニ

2012年01月05日
パレスチナ人権センター

「わたしはいつも、頭と眼と耳が痛い。過去3年間、鼻血が出る。わたしはまだ、脳髄で榴散弾が動くのを感じる」

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ゼイトゥーン地区の自宅前に座るアマル・アッサムーニ(11) (Photo: Palestinian Center for Human Rights)

2009年1月4日、6:00ごろ、イスラエル軍は、ガザ市の東、ゼイトゥーン地区のアマル・アッサムーニ(11)とその拡大家族メンバー18人が避難していた家を取り囲んだ。イスラエル兵士らは、家の所有者、アマルの父親、アッティア・アッサムーニ(37)に、手を挙げて出てくるよう命じた。扉を開けると、彼は、頭と胸を撃たれ即座に殺された。兵士らはそして、家の中に弾丸発砲を開始し、アマルの4歳の弟、アフマド・アッサムーニを殺し、ふたりは子どもの少なくとも他の4人を負傷させた。

続く時間、兵士らは、アッサムーニ拡大家族の他のメンバー100人以上に、アマルの叔父、ワエル・ファレス・ハムディ・アッサムーニの家に入るよう命じた。2009年1月5日、イスラエル軍は、直接その家屋と周辺を標的とし、21人を殺し、他の多くを負傷させた。中に居たアマルは、頭に受けた榴散弾で負傷し、負傷し死にかけあるいは死去した近親者たちの間で瓦礫の下に埋められた。1月7日、それまでその地区に立ち入ることを妨げられていた救急隊員が、彼女を病院に運んだ。

2009年1月4日から7日までで、サムーニ家のメンバー、子ども11人、女6人を含む27人が殺され、アマルの双子の弟、アブダッラを含む他の35人が負傷した。

(略)

全文:International Solidarity Movement

アーカイヴ:サムーニー通り(2011年12月30日)

関連記事:「2009年1月6日:アッダヤ家」International Solidarity Movement

2012年01月06日
パレスチナ人権センター

「妻と子どもたちの遺体を含む、殺された9人の遺体はみつからなかった。わたしは、彼らの遺体をみつけるため、市民防衛隊員と最善を尽くした。わたしたちが見つけたのはすべて、誰か特定できない肉のかけらだった。」

2009年1月6日、およそ05:45、イスラエル航空機は、ガザ市のゼイトゥーン地区にあるアッダヤ家を爆撃した。子ども12人と妊婦を含む22人が殺された。攻撃のとき、家の中に居た家族のたったひとり、アメル・アッダヤ(31)が生き残った。アメル、近くのモスクでの早祷からまだ帰宅していなかった兄弟ふたり、夫や子どもと別の場所に住む姉妹ふたりが、アッダヤ家で生き残る数少ないメンバーだ。

(略)

アーカイヴ:2008年12月31日:アブアリーダ一家(01月05日)
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「プライスタグ」攻撃のユダヤ人過激派の刑務所はない

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2012年1月3日、ユダヤ人過激派らが、パレスチナ人や軍を標的とする憎悪犯罪の進行するうねりに関連して、イスラエル当局に逮捕された仲間の釈放を要求し、エルサレムの行政裁判所前のデモンストレーションで笛を吹く。(Photo: AFP - Menahem Kahana)

2012年01月05日木曜日

この数週間、パレスチナ人への「プライスタグ」放火事件に関与するユダヤ人過激派12人が、服役を回避したが、その代り、1年を最大として西岸から締め出されるだろうと、イスラエル軍は火曜日、声明で明かした。

男たちを「活動家」と呼び、声明は、他の者が3ヵ月から9ヵ月のそれぞれの期間、被占領パレスチナ領域に入ることができない一方、男ひとりは1年間禁止されるだろうと述べた。

(略)

先立つ何週間かで、モスク、家屋、車輌を含む、パレスチナ資産の多くが攻撃されてきた。

最新の「プライスタグ」攻撃は、ユダヤ人過激派が、パレスチナの車(複数)を燃やし、ヘブライ語で、反-アラブの落書きを殴り書きした、たった昨日起こった。

イスラエル治安部隊がしばしば見て見ぬ振りするので、犯罪はめったに罰せられず、イスラエル入植者らは、常に西岸のパレスチナ人に嫌がらせし攻撃する。

対照的に、パレスチナ人は頻繁に拘留され、イスラエル占領軍により課される厳しい日々の制限に苦しむ。

火曜日、イスラエル諜報部隊は、エルサレムの6歳のパレスチナ人少年を誘拐し、しばらく拘留した。

イスラエル軍は、投石のパレスチナ人の若者の名前を明かすだろうことを期待して子どもを尋問した。

(略)

全文:alakhbar

アーカイヴ:イスラエル軍がエルサレムで「6歳を拘束」(01月06日)
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