2012年01月22日

2009年1月18日:アブルジャイラ家

2012年01月18日
PCHR(パレスチナ人権センター)

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オリーヴの苗木の傍らに立つアブデルアズィミとマズーザ・アブルジャイラ (Image from pchrgaza.org)

(以下は、「キャストレード作戦」から3周年を記す23の語りシリーズのうちの語り22である。新たな掲示が、事件が発生した3年前の日付と同じ、各々の日に公表されるだろう。語りは、パレスチナ人権センターにより促進されている。)

「そこに到着してわたしは、彼らの土地で作業するその地区の多くの人びとを見つけた。それは静かで、それだからわたしは、心地よく感じ、そこに留まった。突然、ジープの1台が境界で止まり、弾丸につぐ弾丸が発砲された。

2009年1月18日、10:00ごろ、イスラエルとガザ回廊間の境界に配置されたイスラエル軍が、ハーンユーニスの東、フザア村の東の彼らの土地で作業する農夫たちに向け、無差別に弾丸を発砲した。農夫のひとり、マヘル・アブデルアズィミ・アブルジャイラ (23) は、弾丸の1発が、彼の左腕と胸を貫き、殺された。

「マヘルは、畑でわたしの近くにいた。彼が『アッラー・アクバル』と叫ぶのを聞いたとき、彼はわたしの後にいて、わたしは、弾丸の1発が彼に命中したのを見いだした。人びとは悲鳴を上げ、地面に打ち倒れた」と、彼の父親、アブデルアズィミ・アブルジャイラ (59) は思い浮かべる。マヘルは、激しい砲撃下、馬車に運ばれ、次に車に移された。彼は、病院に到着して、死が宣告された。

「1月17日、イスラエルは停戦を宣言した」と、アブデルアズィミは思い浮かべる。「1月18日、多くの人びとが、そこの彼らの土地と家を調べるため、フザアの東に戻った。マヘルと(彼の兄)ユーセフは、土地に行き、彼らが心配だったのでわたしは彼らを追った。そこに到着すると、わたしは、その土地で作業するその地区の多くの人びとを見いだした。静かだったので、わたしは心地よく感じ、そこに留まった。突然、ジープの1台が境界で止まり、弾丸につぐ弾丸が発砲された」。ユーセフ (29) が、彼の弟の殺害後、PCHRに与えた目撃陳述によれば、マヘルと境界の間の距離は800メートルほどだった。彼は、その地区が静かで、電気技師たちもまた、その地区で作業していたと語った。

(略)

彼らの息子、兄弟の喪失を被ってなお、アブルジャイラはまた、彼らの農地の破壊と、到達不能の結果、経済的に苦闘する。兄弟たちと共に、アブデルアズィミは、イスラエルとの境界に近い、ハーンユーニスの東に4ヶ所の土地を所有する。

「わたしたちの土地は、オリーヴとオレンジの樹木が栽培され、わたしたちはその果実を売ったものだった。しかし、第二次インティファーダ開始以来、軍は、繰り返し何度もブルドーザで押し潰した。攻撃の前、わたしたちは日常的に土地に行き、夜遅くまで留まり、そこでバーベキューしたものだった。人びとはまだ、その地域に住んだものだった。わたしたちもまた、そこに建物を持っていたが、攻撃中、それらはすべて、作物と共に破壊された」と、アブデルアズィミは語る。

アブデルアズィミは、彼の土地の耕作継続を試みるとき、彼の息子を殺したのと同じ暴力に直面する。「昨年10月に、オリーヴの苗木を植林しようとしたとき、彼らはわたしを撃ち始め、わたしは離れなければならなかった。苗木は今、我が家の隣にある。4区画の2ヵ所に、わたしたちはもはや全く到達することができない。彼らがブルドーザで潰して以来、わたしたちはもはらそれらに到達できなかった。わたしたちがアクセスしようとすると、彼らはわたしたちに発砲する。それら畑は、50年もののオリーヴ樹が栽培されていたのに」。

(略)

全文:Jadaliyya

アーカイヴ:2009年1月16日:シュッラブ家(01月20日)
     :2009年1月15日:アンナディーム家(01月19日)
     :2009年1月14日:ムハマド・ムーサ(01月16日)
     :2009年1月13日:ヒッバ・アンナッジャル(01月14日)
     :2009年1月12日:アヤド家(01月14日)
     :2009年1月11日:ハムーダ家(01月14日)
     :2009年1月10日:ワファ・アルラデア(01月11日)
     :2009年1月9日:アブオダ家(01月10日)
     :2009年1月8日:アルラヘル一家(01月10日)
     :2009年1月7日:マタール家(01月09日)
     :2009年1月5日:アマル・アッサムーニ(01月07日)
     :2008年12月31日:アブアリーダ一家(01月05日)


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イスラエル裁判所がガザ大虐殺被害者による訴訟を妨げる5,200ドルの「保証」を課す

アリ・アブニマ
2012年01月18日水曜日

イスラエル裁判所は、1,400人を殺し、他の何千人もを負傷させ、立ち退かせた、2008年12月27日から2009年1月18日の、イスラエルのガザ回廊への攻撃「キャストレード作戦」に関わる訴訟に持ち込んだパレスチナ人被害者に、2万シェケル(5,200ドル)の「保証」を課し始めた。

この戦術は、個々の原告1,046人を代理する、ガザ拠点のパレスチナ人権センター (PCHR) によれば、「公正への打ち勝ちがたい障害」を設置する。今朝のリリースに、PCHRは書いた:

裁判所は、原告ひとりにつき、裁判所保証、2万シェケルを課し始めた。この保証は、訴訟を進める前に支払わなければならない。PCHRは、2つの要因を強調したい:ひとつは、この保証の額が、ガザ回廊の被害者の圧倒的多数の収入をはるかに越え、したがって、公正への打ち勝ちがたい障害を設置する;ふたつめは、この保証が原告ひとりにつき課され、これは、公正へのより大きな違反(そのようにより大きな原告数)、より大きな経済的障害とする状況に帰着する。

そのリリースはまた、被害者、1,046人各々を代理して、刑事・民事訴訟が提出された事実にも拘らず、「現在まで、実在的返答は、刑事訴訟で2件、民事訴訟で2件に関してしかなされていない」と言及した。

原文:The Electronic Intifada


 それぞれの記録の半分も翻訳しなかったけれど、パレスチナ人権センター (PCHR) による、アーカイヴの以下の記録は、すべてイスラエル裁判所に持ち込まれ、返答を受けていないものである。生活基盤を打ち砕いておいて、いざ訴訟に持ち込まれると、法外な裁判の「保証金」を課す。イスラエルのこのような手法の問題点は、これら悪質な手法が世界中に広まり、米国に、次いでニッポンにも採用されて、わたしたちを脅かすことである。だから問題は、イスラエルの弾圧を受けるパレスチナ人に留まらない。

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ガザへのイスラエルによる攻撃で2人死亡

2012年01月18日水曜日

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ムハマド・アブオダの近親者はガザ回廊北部、ベイトハヌーンの葬儀で彼を悼む、2012年1月18日 (Reuters/Mohammed Salem)

ガザ市 (Ma'an) -- イスラエル軍が、水曜日、ガザ回廊北部に発砲し、ふたりを殺し、少なくても他のふたりに重傷を負わせたと、目撃者と医療筋は語った。

ガザの保健省は、ムハマド・シャケル・アブオダが、現場で死を宣告されたと語った。アフマド・アッザーニーン、17歳は、攻撃の直後、病院で死んだ。他のふたりが重傷だ。

イスラエル軍幹部は、ベイトハヌーン近くの攻撃が、境界に爆破装置を埋める「テロリスト分隊」を標的としたと語った。

目撃者たちは、Ma'anに、飛行機と戦車が都市に向け、少なくとも4回発砲したと語った。

医療関係者は、継続的発砲と激しい射撃で、救急車ははじめ、現場に到着できなかったと語った。保健当局によれば、救急車の1台は、損傷を被った。

(略)

全文:Ma'an News Agency
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2012年01月21日

ハリト・アッダルの家屋8棟に破壊命令

2012年01月18日
Jack English
International Solidarity Movement、西岸

1月4日、イスラエル軍司令官は、ヘブロンとしても知られるアルハリール市のすぐ南、ハリト・アッダルの町の8棟に、破壊命令を送達した。

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ハリト・アッダルのスレイマン・アブスニナは彼が受け取った破壊命令を見せる。

家族への破壊命令発行に述べられる理由は、イスラエルの建築許可なしに、彼らの家屋に増築したというものだった。1994年のオスロ合意に従えば、町での建築許可は、家族への必要な許可を発行したアルハリール自治体により発行される。しかしながらイスラエル当局は、許可は、西岸のイスラエル占領が始まった1967年以来、1980年、町にとり僅か1件の建築許可が発行されたのみの、イスラエル政府によってのみ発行するものとすると主張する。

(略)

ハリト・アッダル住民への圧力は、同様に他の方法でも現われる。町の大きな水収集ため池は、イスラエル政府が西岸すべての井戸の建設を許可しないので、15年後も未完のままだ。これは、パレスチナ人すべてを、その水供給全体で、イスラエル水道企業、Macarotに、殺傷与奪の権利を握らせる状況に置く。

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ハリト・アッダル眺望

建築許可発行の拒絶により、町は拡張できず、家族が拡大するとき、住居の拡張なしで、生活空間は更に更に小さくなる。

ハリト・アッダルは、6つの近隣違法イスラエル入植地、Hagai、Kyriat Arba、Carmel、Arsina、Susya、Ma'onに囲まれている。ハリト・アッダル住民たちが、ひとたび離れるならば、占領の締め付けを固める作業、さらに入植地が建設され、既存入植地は繋がり、さらにイスラエルの「地上の現実」を造り出す。

全文:International Solidarity Movement


 思い出すのは、NHKの番組、「クローズアップ現代」、一ヵ月ほど前だったろうか、「中東のゆくえ」といった内容だったと思う、3日間のうちの2日目、イスラエルのペレス大統領にインタヴュしていた。被占領西岸での入植地建設を質問したところまでは、ニッポンのメディアとしては上出来だったと思う。ペレスは「新しく入植地は建設していない、(入植者人口の)自然増加を収容するためにしか建設していない」と、応えたのだった。これは正しくない。入植住宅建設戸数は、人口増加率を上回っているし、パレスチナの土地を没収しても、入植地を拡張するなら入植地の新規建設にならないというのは詭弁に過ぎない。イスラエル人より高いパレスチナ人の人口増加を無視しているのだから、本来ならユダヤ人の自然増加に言及などできない筈だ。パレスチナ人の土地を奪うことに変わりはないし、国際法違反にも変わりない。ニッポンのメディアが、そのようなペレスの発言の無意味、欺瞞を指摘できるようになるのはいつだろう。
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土地没収2題

ベツレヘムで土地76エーカー没収
2012年01月19日木曜日
Mais Azza - IMEMC & Agencies

木曜日、パレスチナの家族は、エルサレム市当局の利益となる土地76エーカーを没収する決定により衝撃を受けた。土地は、西岸都市、ベツレヘム東部、アルハッス村の併合壁の陰にあると、パレスチナ通信社、Ma'anは報じた。

イスラエル裁判所は、これらの土地が不在者財産監視の保護下にあるので、その決定がなされると主張した。

村議会議長、ハデル・ハムダンは、議会が、入植地業務省との調整で、問題を解決し、違法な決定を上訴するため、その件を、省の弁護士に委任したと述べた。

没収された土地が非常に肥沃で、それらが、壁のためにそこへの到達を妨げられる村民たちが所有すると言及する価値がある。

原文:International Middle East Media Center

イスラエル占領当局がエルサレム住民の土地117ドゥナム 没収
2012年01月17日

被占領エルサレム、(PIC) -- イスラエル占領当局 (IOA) が、被占領エルサレムのシュアファトとベイトハニーナのパレスチナ人の土地、117ドゥナムを没収したと、火曜日、地元情報筋は語った。

イスラエル占領当局支配のエルサレム自治体が、その117ドゥナムは、Ramat Shlomo入植地に便宜を与える21号高速道に併合されると語ったと、彼らは語った。

(略)

全文:The Palestinian Information Center
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2012年01月20日

2009年1月16日:シュッラブ家

2012年01月16日
パレスチナ人権センター

「わたしは、息子を取り戻しに裁判所に行くことができるだろうか? ノーだ」モハメドは語る。「彼らに続くますます多くが実際いるときに、息子を殺した兵士らを、正義に連れ出す論旨は何か? 他のひとたちが、同様にその息子を失うだろうとき? 彼らが免責されると知っているから、兵士らはこれら犯罪を犯す」。

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モハメド・シュッラブ (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月16日、イスラエル部隊は、ハーンユーニスの南東、アルフクハリ地区に陣を構え、イスラエルが期限付き停戦を宣言したので家に戻ろうとしていたとき、モハメド・シュッラブとその息子ふたり、カッサブ、28歳とイブラヒーム、18歳の車輌に発砲した。モハメドは負傷し、車輌は破壊され、車を離れたとき、彼の息子ふたりは続けて撃たれた。イスラエル兵士らは、救急隊のその地区へのアクセスを拒絶し、カッサブとイブラヒームは、長時間放りだされた現場で出血死した。当時、その地区に軍事作戦はなかった。

モハメド・シュッラブ (67) にとり、息子たちの死以後の生活は、その日の記憶を食い止める、直の闘いだった。「わたしは、常に忙しくしておこうとする。わたしは毎日、4-5時間読書する。あなたが見る壁のこれらの本すべてを、2-3回読んだ。残りの時間、わたしは農場で働き、作物を手入れし、家畜を世話する」と、モハメドは語り、2時間前に生まれたばかりの羊2頭を指差した。彼自身の気を紛らす最善の努力にも拘らず、しかしながら、モハメドは、思い出す生活に身を任せているように見える。「土の下に埋められるまで、わたしは、息子たちの苦しみを苦しみ続けるだろう」。

(略)

全文:International Solidarity Movement

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     :2009年1月9日:アブオダ家(01月10日)
     :2009年1月8日:アルラヘル一家(01月10日)
     :2009年1月7日:マタール家(01月09日)
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タントゥーラへの道

ハラ・ガブリエル

進行中の作品、20分。

Road to Tantura from Hala Gabriel on Vimeo.



roadtotantura.com
ラベル:タントゥーラ
posted by mizya at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | documentary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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