2012年01月14日

2009年1月13日:ヒッバ・アンナッジャル

2012年01月13日
パレスチナ人権センター

「最初の2年、わたしは凌いだけれど、今年、母の喪失から多くを被ってきた。母親と共にいる、あるいは母親について話す少女たちと学校で会うとき、わたしはもっと母がいなくて寂しいと思う。わたしと共に彼女にいて欲しい」

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ヒッバ・アンナッジャル (17) がフザア村の自宅向かい側に座る (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月13日早朝、家屋破壊の2日間に続き、イスラエル軍は、高性能爆発物と白リン砲弾を使用し、フザア村とその周辺に砲撃を開始した。イスラエルのブルドーザ、戦車、狙撃兵が、村の端に陣を構えた。7:00時ごろ、兵士らは、フザア東部の住民たちに、その地区を離れ、村中央に向けて移動するよう命じた。白旗を掲げ、ラウィーア・アンナッジャル (47) は、女たち20人ほどの集団を率い、命じられたように離れようとした。集団が最初の角を曲がった直後、兵士がラウィーヤを射殺した。集団のもうひとり、ヤスミン・アンナッジャル (23) が、ラウィーアを道路から連れ出そうとして、銃弾2発で負傷した。ラウィーアの遺体を引き上げようとして、医療スタッフが撃たれ、近くの家に避難しなければならず、遺体を通りから引き上げることができたのは、10時間以上も経ってからだった。

「わたしには、母の頭に命中した弾丸の音がまだ聞こえる。兵士が、家の戸口に突き進んで彼女を撃ったとき、わたしは、彼女のすぐ傍らに立っていた。わたしは彼を見ることができた」と、ラウィーアの17歳の娘、ヒッバは、両腕で状況を描きながら語る。「通りで白い布を掲げているわたしの母を、なぜ彼らが殺したのか、その朝早く、家の屋上にいたとき、なぜわたしは殺されなかったのか、わたしは考え続けている」。ヒッバは、その日起こったことの意味が、まだ解けないでいる。

(略)

全文:International Solidarity Movement

アーカイヴ:2009年1月12日:アヤド家(01月14日)
     :2009年1月11日:ハムーダ家(01月14日)
     :2009年1月10日:ワファ・アルラデア(01月11日)
     :2009年1月9日:アブオダ家(01月10日)
     :2009年1月8日:アルラヘル一家(01月10日)
     :2009年1月7日:マタール家(01月09日)
     :2009年1月5日:アマル・アッサムーニ(01月07日)
     :2008年12月31日:アブアリーダ一家(01月05日)


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2009年1月12日:アヤド家

2012年01月12日
パレスチナ人権センター

「もうひとつ戦争があるなら、そこで死のうともわたしは動かない、わたしは二度と(同じ辛苦を)通りたくない」

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ムスタファ、アブデルカリーム、レゼック・アヤド (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月12日、ガザ市、ゼイトゥーン地区のアヤド家の家は、イスラエル軍によりブルドーザで押しつぶされた。レゼック・アヤド、60歳、彼の妻、ユスラ、58歳、彼らの息子4人、ムスタファ、16歳、ムハメド、20歳、アブデルカリーム、26歳、ハリール、29歳、そしてハリールの娘ふたりは、攻撃の結果、ホームレスとなった。家族は、その地区への激しいイスラエル爆撃の結果、彼らの家の破壊の数日前、その地区を離れた。

レゼック・アヤドと彼の息子、アブデルカリームと話して、彼らの立ち退きを後ろに置いたことで、彼らが感じる安堵は明らかだ。今、家族の家に戻り - 2010年5月に再建を始め、2010年10月に引っ越しして - ふたりは、家族が今や安全で、再び、比較的安定していることを、喜び感謝している。「わたしは、あの時を思い出し、わたしたち皆がまだ生きていることを神に感謝するのみだ」と、レゼックは語る。

「ぼくたちは、着ていた服と毛布とマットレス数枚の他、何も持たずに家を離れた」とアブデルカリームは説明する、「ぼくたちは、ブルドーザで押しつぶされたとき、家と共にすべてを失った」。攻撃の余波で、全家族が、代わりの避難所を見つけることを強いられた。「わたしと妻は、ガザ市のアスクーラの親戚に身を寄せた」とレゼックは語る、「わたしの息子、アブデルカリームは、アッサムーニ地区に移動することを強いられ、ハリールは、妻や幼い娘たちと、テント村で2年間過ごす他、選択肢がなかった」。

レゼックの息子、当時17歳だったムハメド・アヤドは、家族の家の廃墟の中に小さな構造を建て、家と、彼がそこで飼っていたロバたちを見守ることができるよう、そこに留まった。

(略)

全文:International Solidarity Movement

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     :2009年1月10日:ワファ・アルラデア(01月11日)
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イスラエルがガザのディーラー購入の「新車2,400台保持」

2012年01月10日火曜日

ガザ市 (Ma'an) -- イスラエル当局が、ガザ回廊への新車2,400台の搬入を遅らせていると、火曜日、ガザの自動車売買業者組合のトップは語った。

搬入承認がペンディングの地元自動車売買業者たちにより購入された車輌は、1億ドル相当と、イスマイル・ナハラは声明で述べた。

車何百台もが、イスラエルの港に溜め置かれ、一方、ディーラーの何人かは、コスト削減のため、西岸の倉庫に購入品を輸送していると、彼は語った。貿易業者たちは、イスラエルが、パレスチナ領域への輸送を妨げておいて、商品を保管するのに商社に過度に課すと主張する。

イスラエルは、封鎖回廊への搬入で、一週間につき車40台を許可するのみと、彼は付け加えた。

(略)

全文:Ma'an News Agency
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イスラエル入植者らを引きつける険悪な運転流行でパレスチナ人が苦しむ

Dr. Hanan Chehata
2012年01月13日金曜日

奇妙な苦悩が、西岸の入植者らを冒しているように見える。彼らが、入植者地位(入植地すべてを違法な性格と看做す世界の残りの眼に、不名誉の象徴)を与えられるや否や、これらの個人は、穏やかで合理的手法で運転する能力をすべて失い、その代り路上で、死を招く困り者と成り果てるように見える。粗悪な運転がある種の病状であり得るとの考えを、ひとは笑うかもしれないが、被占領パレスチナ領域で現れる、過去数ヶ月のニュース報道を注視するなら、なぜこのように、不釣り合いに多くの物語があるとみえるのか、といった考えをあなた方自身取るのを見出すかもしれない:

入植者が障害のあるパレスチナ少女を轢く (2012年1月12日)
よちよち歩きの幼児が入植者の車に衝突される (2012年1月12日)
ユダヤ人テロリスト入植者がパレスチナ市民を轢く (2011年10月5日)
入植者がパレスチナ姉妹に車輌を突き当てる (2011年10月4日)
入植者がひき逃げ事故でパレスチナ少年を殺す (2011年9月27日)
ユダヤ人入植者が障害のあるパレスチナ人を轢く (2011年9月18日)
パレスチナ人が入植者の車に轢かれる (2011年8月29日)
少佐がパレスチナ人を轢くよう命令 (2011年6月19日)
ヘブロンで入植者がパレスチナの子どもに車をぶつける (2011年4月13日)

(略:長い、パレスチナ人に対する民族浄化政策をとるイスラエル政府への協力、例えば、犬や猫を轢くのを避けるため、運転者は蛇行したりするが、入植者はパレスチナ人を轢き殺そうと追いかけて、蛇行運転することなどにも触れている)

全文:Middle East Monitor

関連記事:「イスラエル入植者がパレスチナ女子生徒ふたりを轢く」The Palestinian Information Center
2012年01月12日

アルハリール、(PIC) -- 木曜日午前、別個の事故で、イスラエル人の女2人が、パレスチナの女子生徒ふたりを、それぞれ、アルハリール(ヘブロン)とナブルスで轢いたと、医療情報筋は語った。

イスラエル入植者が、アルハリールで、肢体不自由児、ヒバ・ヒジャージを轢き、走り去ったと、赤三日月社救急部門の外科医局長、ナセル・カバジャは語った。

彼は、ヒジャージの脚が、イブラヒミモスク近くの学校に登校中、彼女の車椅子に衝突した事故で骨折したと語った。

ナブルスで、他の17歳、Angham Al-Faqihは、ハワラ村近くの学校に行く途中、ナブルスでの他の事故で衝突された。

西岸北部の入植地監視、ガッサーン・ダグラスは、女子生徒が軽傷を被り、病院に連れて行かれたと語った。
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写真:パレスチナのグラフィティ・アーティストたちが西エルサレムの厳重防備中心に浸透

アリ・アブニマ
2012年01月12日木曜日

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パレスチナのアーティストたちは、夜通し、西エルサレムの厳重に防備された中心に浸透し、壁、扉、建設現場や他の表面に、政治的メッセージを運ぶグラフィティを描いた。

アーティストたちは、ふたつの地域、西エルサレム市中心(ヤーファ通りとキング・ジョージ通り近く)とジャーマン・コロニー/タルビーヤ地区をねらい打った。

市中心は今日、イスラエルユダヤ人と観光客がよく集まる、バーやレストランであふれている。タルビーヤは、かつて繁栄するアラブ地区だった。これらの地区と西エルサレムの広範囲は、1948年、そのパレスチナ住民を民族浄化され、今や殆ど排他的にユダヤだ。

写真が示すように、アートは、アラビア語「アナ」(「わたし」)とあるパレスチナ地図と、「反乱」のことばを添えた、クフィーエをつけた女の像を含む。この像は、パレスチナ民衆闘争で女たちが果たす中心的役割の合図だ。アーティストたちは、これから何日か、あるいは何週間か、同様の行為を取ると計画する。

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原文と画像7点:The Electronic Intifada
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2009年1月11日:ハムーダ家

2012年01月11日
パレスチナ人権センター

「わたしは、腕に別の子どもを抱くことさえできない、6か月の新しい孫がいるのに、わたしはまだ腕に抱いていない、わたしは、ファレスの場所と感じている」

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タラトゥとインティッサール・ハムーダ (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月11日、朝早く、ガザ市、タラルハワのインティッサール・ハムーダ、41歳の家は、イスラエル軍の攻撃を受けた。イスラエル戦車の発砲は、攻撃時、2歳だった彼女の息子、フェレス・ハムーダと、継息子、ムハメドの死に繋がった。ムハメドは、彼女が、ムハメドの父、彼女の夫のタラトゥ、54歳と世話をしていた。救急隊員が彼らに到達できなくて、ムハメドが出血死する一方、ファレスはインティッサールの腕の中で即死した。

「ムハメドとファレスは多くの共通点を持っていた。ファレスが生まれたとき、わたしは母乳で育てることができなかったので、粉ミルクを与えなければならなかった。ムハメドは、10ヵ月で母親を失い、粉ミルクを与えられた。その結果、どちらも、似通った症状の病気を持っていた」と、インティッサールは語る。彼らの短い生涯を通し、兄弟は仲良かった。「ファレスは、ムハメドが学校から帰るまで、眠りにつくのを拒絶した。攻撃の日、ファレスは病気で、わたしから薬を飲むのを拒絶し、ムハメドに飲ませて欲しがった」とインティッサールは語る。

攻撃に続き、インティッサールは、酷く衰弱した。「わたしは、脚と骨盤に負傷したため、事件から6ヵ月後でさえ、わたしの脚で歩くことができなかった;わたしは、家を動き回るのに、継娘たちや姉妹たちの助けを必要とした」。インティッサールは、構造的形成手術同様、腹部から榴散弾を取り除く手術を、以来、3回受けた。

(略)

全文:International Solidarity Movement

アーカイヴ:2009年1月10日:ワファ・アルラデア(01月11日)
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拷問と引き渡し:グァンタナモ事件の輪郭

2012年01月11日

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(左から右に)アブズベイダ、ビンヤム・モハメド、ムサアブ・オマル・アルマドゥワーニ、モハメドー・ウルド・スラヒ コピーライトマーク US DoD, private, ICRC

アブズベイダ、無国籍パレスチナ人
強制的失踪、拷問と他の虐待にさらされ、そして現在、告発も刑事裁判もないまま、特定されていない軍の監禁下にある

アブズベイダとしてより一般に知られる、ザイン・アラビディン・ムハマド・フセインは、パキスタンで、2002年3月に逮捕された。彼は、USAに手渡され、彼がグァンタナモ・ベイに移送される2006年9月4日まで、CIAにより、様々な公表されない場所で、秘密の拘留に維持された。

彼は、2002年8月、水責めに少なくとも83回晒された。彼はまた、申し立てによると、何年もの独房監禁、隔離拘禁、圧迫姿勢、殴打、強制された長時間の裸、睡眠剥奪、大音量音楽の使用、寒さへの露出、長時間の手枷、脅迫、強制のそり落とし、残酷な移送状態、食事の剥奪あるいは制限に晒された。

今日、アブズベイダは、それ(オバマ政権)はこれを認めていないが、2010年に、刑事裁判なしで無期限に拘束する意図とオバマ政権が語った、グァンタナモ拘束者48人のひとりと思われる。

(略:米国は、アブズベイダが、アルカーイダのメンバーと言っておらず、9.11攻撃を知っていたとも言っていない)

ビンヤム・モハメド:英国居住のエチオピア人
合衆国拘束から釈放、人権侵害のためにまだ補償を模索

エチオピアで生まれたビンヤム・モハメドは、政治亡命を模索して、1994年に英国に来た。彼は、7年間英国に住み、彼の保護主張が調査される間、留まる許可を与えられた。

ビンヤム・モハメドは、2002年4月にパキスタンで逮捕された。2年以上後、2004年9月19日、彼は、グァンタナモに連れて行かれた。その間彼は、申し立てによると、彼が18か月間拘束されたモロッコに引き渡され、次に、バグラム空軍基地に拘束される前、アフガニスタン、カブールで、CIAが管理する「暗い刑務所」に移送された。

2009年遅く、米国地方裁判所裁判官は、その年の2月にグァンタナモから英国に釈放されたビンヤム・モハメドに対して犯された人権侵害の証拠を概説した:

「ビンヤム・モハメドの長く残忍な拘留の経験は、裁判所にとり重要である... ビンヤム・モハメドの外傷は、2年の永きにわたり存続した。その間、彼は肉体的にも心理的にも拷問された。彼の性器は切除された。彼は睡眠と食事を奪われた。彼は、ある外国の刑務所から別の刑務所に、予告なしに移送された。捕らえた者らは、一度に何日も、彼を圧迫姿勢に保った。彼は、真っ黒な房に閉じこめられている間、つんざくような大音量の音楽や他の囚人たちの悲鳴を聞かされた。その間中、彼は、アメリカ人を危険に晒す様々な計画で、彼自身や他に罪を負わせるよう強制された。政府はこの証拠を議論しない」。

(略)

ムサアブ・オマル・アルマドゥワーニ:イエメン人
司法の虐待の発見にも拘らず、責任はない;告訴も裁判もないまま拘留される;失敗の人身保護令状請願。最高裁判所再審理を模索

2002年9月11日、カラチで、パキスタン当局により、彼が逮捕された時、ムサアブ・オマル・アルマドゥワーニは22歳だった。アルマドゥワーニは、彼が縛られ、目隠しされ、ライフル銃で殴られ、死を脅迫されたと述べた。彼は、米軍に引き渡され、アフガニスタンに空輸される前、5日ほどパキスタン拘置所に囚われた。

彼は、虐待の繰り返しに晒された、カブールかその近くの秘密の米国管理施設、「暗い刑務所」に連れて行かれ、30日から40日の間、拘留されたと語る。彼は、殴られ蹴られ、完全な闇に維持され、食事と睡眠を奪われ、極端な寒さに晒されたと断言した。彼はまた、投獄の全期間、左手を部分的に吊るされ、その結果、彼は座ることがでず、彼の体重すべてが片足にかかり、恒久的神経損傷を引き起こしたと述べる。

彼は次に、さらに5日間拘束された、バグラムの米国空軍基地に移送され、さらなる虐待を被った。彼は最終的に、2002年10月28日、彼が留まるグァンタナモに移送された。

(略)

モハメドー・ウルド・スラヒ:モーリタニア人
グァンタナモに於ける拷問あるいは他の虐待を被り、告訴も裁判もないまま、明確でない拘留、身柄保護裁決を勝ち取ったが、上告で逆転される

米国地方裁判所によれば、モハメドー・ウルド・スラヒは、最初、ロサンジェルス国際空港を爆破する、失敗した「一千年計画」に関与した容疑で逮捕された。彼は、2001年11月にモーリタニアで逮捕され、次に、8か月拘留されたヨルダンへの引渡しに晒された。彼は、2002年7月、次にアフガニスタンのバグラムに、そして2002年8月4日、グァンタナモに移送された。

2003年にグァンタナモで、彼は、申し立てによると、70日ばかり連続の睡眠を奪われ、ストロボ照明と連続的大音量ヘビーメタル音楽、彼とその家族に対する脅迫、犬による威嚇、冷温、冷水ぶっかけ、肉体的暴行、食事剥奪に晒された。彼はまた、申し立てによると、ヨルダン、バグラム、そして移送の間、拷問、あるいは他の残酷で、非人間的、貶める扱いを受けた。

2010年4月、連邦判事は、モハメドー・スラヒが「2003年6月半ばから2003年9月まで、グアンタナモで、広範で過酷な虐待」に晒された「充分な証拠」があると言及した。これは、この拘留者が、彼の米軍捕獲者により、「特別計画地位」を持つとラベルされ、国防長官、ドナルド・ラムズフェルドを含む様々な官僚により承認された、90日間の「特別尋問計画」に晒された期間だった。

(略)

アブダルラヒム・フセイン・ムハメド・アンナシリ:サウジアラビア人
拷問と失踪強制に晒され、現在、軍法委員会による不公正な裁判に直面しており、処刑の可能性

アブダルラヒム・フセイン・ムハメド・アンナシリは、5年以上グァンタナモで、9年間以上米国拘留下におかれてきた。彼は、軍法委員会による裁判で告発され、死刑宣告の可能性に直面している。

2002年10月、アラブ首長国連邦、ドバイで、地元公安部隊により逮捕され、彼は、米国スパイに手渡され、中央情報局 (CIA) により、殆ど4年間、明かされない場所で秘密拘留におかれた。

CIA拘留期間に、彼は、失踪強制、「水責め」、手枷、頭覆い、および裸に晒され、また短銃と電気ドリルで脅迫された。

2006年9月4日、彼は、彼が留まるグァンタナモの米国軍事拘置所に移送された。彼は、2000年10月12日、米国水兵17名が殺され、他の40名が負傷したイエメンのUSS Cole攻撃と、2002年10月6日、乗組員が殺された、アデン湾でのフランス石油タンカー、MV Limburgに対する攻撃で、指導的役割を果たしたとして告訴された。

(略)

全文:Amnesty International
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