2012年05月10日木曜日
パレスチナ政治囚のための座り込みテントは、赤十字国際委員会からガザ中央の「無名戦士」像近くの中央公園に移された。それは僅かな緑の場所のひとつで、したがって、人びとが彼らの暗い家から逃れ、楽しみと気晴らしを求め、あるいは単に人びとを眺めるための、ガザで最もにぎわう場所のひとつである。
しかしながら、座り込みテントは、4月17日以来、大規模ハンガーストライキにあるわたしたちの政治囚に連帯のメッセージを送り、アラブ・国際社会と、人権・民主主義・公正を要求し続ける、しかしわたしたち囚人のこととなると何もせず彼らが死ぬのを眺めている人権組織すべてに、怒りを示すよう意図される。
連帯は、蠟燭を灯す、行進、さらに創造的演劇上演、歌、詩、ダブケ・ダンスといったような多くの形をとっている。ガザの座り込みテントで、元囚人たち同様、囚人たちの妻、親、姉妹を含む、男50人と女45人が、5月2日以来、拘留者たちに連帯する象徴的ハンガーストライキを行ってきた。昼も夜も抗議する、テントは、イスラエル刑務所内でハンガー革命が続く限り、彼らのシェルターである。
健康悪化
家にいるよりもっと連帯テントで毎日を過ごし、わたしは、その健康状態が悪化し始めたハンガーストライカーの殆どの事例を目撃してきた。いくつかの事例は、低血圧か高血圧のため病院に送られ、人びとの多くが気を失うか、情緒的に崩壊した。救急車と医師たちは、テントを常勤とするかのように、もはやテントを離れない。
より日が過ぎるにつれ、ハンガーストライカーが青白くなるのを見る一方、わたしは、わたしたちのヒーロー、イスラエルの鉄格子の後のわたしたちの囚人たちを考え、なぞらえざるを得ない。ここガザ市のストライカーたちは、水と塩分を摂ってきたし、また、1日当たりヨーグルトとスープの小皿がある。しかし、わたしたちの囚人たちは、水と塩分の他なく、そして時々、それがイスラエル刑務所当局に没収されてしまえば、それさえない。ここのストライカーたちは、彼らがそうしようと思えばいつでも、休んだり眠ったりできるが、わたしたちの囚人たちは、彼らを消耗しつくす意図でイスラエル刑務所業務 (IPS) により、部門・刑務所間を移送され続ける。
やはり現在連帯ハンガーストライキする元囚人、ロアイ・オデは、IPSが、ストライカーの休養を無慈悲に妨げると力説する。イスラエル刑務所での不服従キャンペーンで、昨年9月のハンガーストライキでの経験を思い起こし、彼は書いた:「兵士らは、かろうじて立つことができる弱った身体のハンガーストライカーでなく、戦場で武装闘士たちと対決してでもいるかのように、暴力的にストライカーの房に乱入する。ストライカーが騒音に耐えられないと知りながら、兵士らは、大きな叫び声をあげながら房に侵入し、捜索よりむしろ殴られたと感じるやり方で手探し始める」。
「唯一残された息子」
座り込みテントのホスニ・アッスラフィティとロアイ・オデ。(Dalia Miqdad)
テントでのハンガーストライカーへの支持と賞賛を示すため、毎日ツアーする間、わたしは、アブホスニ・アッスラフィティが、パレスチナ旗で美しくデザインされ「わたしたちは尊厳に生きる」と書かれた他から彼らを際立たせるストライカーのTシャツを着ているのを見て驚いた。アブホスニ、66歳は、政治囚のための赤十字国際委員会での毎週の抗議に通い始めて以来、わたしが会った拘留者の父親だ。
わたしたちが会うときはいつも、わたしたちは互いに挨拶し、短く普段の会話をするが、彼を親密に知るようわたしに感じさせる実際の会話を持つことがなかった。それが、Tシャツを見たことの反応、驚きから「あなたもまた?」とわたしが言った後、変わった。
「そうとも!」と彼は断言した。「この尊厳の闘いで、わたしたち自身をパートナーと見なすから、わたしたちはこの手段をとったけれど、わたしたちのハンガーストライキは、要するに、象徴のままだ。わたしたちの拘留者のイスラエルの抑圧的政権下での巨大な苦痛に等しいものは何もない。食物に餓えるばかりでなく、彼らは尊厳、公正、自由に餓えている」。
彼は、その年齢を、10年間拘留されまだ6年ある彼の息子、アリと共に前線に立つ妨げとすることを拒絶した。医師たちは、彼にハンガーストライキを止めさせようとし続けるが、彼は「わたしの命は、息子の命以上に大切じゃない」と語り拒絶する。
わたしたちの会話はまだ始まりだった。次の会話は心張り裂けるものだった。わたしは、彼の高い精神と決定に驚嘆したが、このわたしたちが交わした心からのおしゃべりは、彼が強さをどこから得たのか明らかにした。
「アリは残された唯一の息子だ」と、彼は語った。
「残された?」わたしは遮った。
すると彼は肘を動かして、腕の下に挟み込んでいた写真を示し、説明し始めた。「わたしには3人の息子がいた。長男のホスニと末息子のモハメドは殺され、真ん中の息子はイスラエルの鉄格子の向こうにいる」。
わたしは激怒を感じて、彼の息子たちがどのように殺されたか尋ねた。
「2004年、わたしは、ガザの空を占領する戦闘機の恐ろしい音についてひとりしゃべる妻と坐っていた。わたしたちは、攻撃が起こると知っていた。そして、大きな爆発が聞こえ、わたしたちの下の地面を揺らした。わたしたちは、言い尽くせないパニックにあった。妻は『神が標的とされる民衆の母親たちと共にあられますよう』と祈った。彼女が自身のために祈っていたと知らず、その後、彼女は長男の暗殺を知らせる電話をとった」。
その悲劇を聞いた後、わたしの感情をコントロールし続けるのはとても難しかった。わたしは、哀しみに溢れた彼の目を見つづけ、黙って聞いた。
「待って。次の物語はもっと衝撃的だ」と、彼は語った。「1994年、わたしは、妻と7歳の息子、モハメドと親族を訪問しての帰り道だった。わたしたちは、ナハル・オズ入植地近くの東のラインに近かった。通りに立って、わたしたちを家に連れ帰るよう車に手を振っているとき、わたしたちは突然、わたしたちに向かって突進してくるイスラエルの車とジープを見た。わたしたちは混乱し脅えた。彼らは、故意に息子に激突して車輪下に轢き込み、妻に衝突してひどく負傷させ、そのまま入植地に向けて高速で運転し続けた。それは残酷だった。それがすべて、あまりに速く起こったので、わたしは、彼を殺し、振り返ることさしなかった無情なドライバーを前にした恐れから固まった息子を救うことができなかった」。
アブホスニは、わたしの反応を見るため話すのを止めたが、わたしはあまりの衝撃に何も言えなかった。彼の、ふたりの息子の殺害の物語を語る声が、わたしの耳の中で再生され続け、わたしの涙は流れ続け、衝撃の痕跡はわたしの顔を去らなかった。彼はその状態のわたしを見て、柔らかにわたしの手たたいて語った。「哀しまないで、わたしの嬢や。わたしたちがこれらパレスチナの聖地に生きる限り、いかなる犠牲をささげることも、決して充分とはならないだろう。わたしたちが導いているこれら不正で危険な生活は、わたしたちの精神力と決定の源だ。そうでなければ、あなたが、生きている犠牲者、息子に連帯し、彼の解放をすぐにも祝うことを望んで今ハンガーストライキするわたしと会うこともなかったろう」。
拘留者の家族すべてが、武装の無慈悲な獄吏に対する「空腹の闘い」での拘留された息子たちの勝利を祝うよう祈ろう。真剣な行動を講ずることにより、わたしたちの祈る人びとを支持しよう。
原文:The Electronic Intifada