2012年05月31日
わたしは今日の午前中、友達や友達の友達たちと、映画、『壊された5台のカメラ』を観に行くように、友人たちに電話して過ごした。わたしは昨夜それを観て、圧倒された。
パレスチナ/イスラエルの平和、公正に関心ある誰あれ、この映画を観なければならない。それは、ビリンの村人の確固と、このひとりの仲間、彼の村に起こっていること、土地が奪われていることを報じようと望んだイマド・ブルナトの確固についての信じがたいドキュメンタリだ。そしてそれは、ビリンの人びとを支持しているイスラエル人への、これがドキュメンタリで、『アルジェの戦い』は演じられた再現であったものの、『アルジェの戦い』基準の世界的に名の通った上映をする手段を、彼らが得た証である。
映画は、この仲間、ブルナトの生活と彼の家族の生活、そしてこれらデモンストレーションの5年にわたる、彼の末の子ども、ギブリールの物語、この子どもに起こること -- 撮影、村への襲撃、幼い少年のイスラエル人の逮捕を、織り込む。そしてこのすべてが、とても力強い物語に織り込まれる。
わたしは6:30の上映を観に行き、(JVP/「平和のためのユダヤ人の声」の)Carl Schierenがそこにいて、わたしに、映画監督のひとりが、次の映画上映にいるだろうと告げたので、わたしたちは、夕食を摂りに行き戻った。イスラエル人監督、Guy Davidiがしばらく立って、いくつかの質問に答えた。彼は、米国がそこで起こることにとり非常に決定的なので、彼らがイスラエルでよりもっとアメリカで、これの上映を望んだと語った。この映画を作るようになったとき、彼は疑っていたと、というのも、その土地の没収を止める試みで、ブドゥルスやビリン、他の村々について、他の映画がつくられてきたので、と語った。彼は、より興味深いアングル -- そのアングルが、撮影し、イスラエル軍に破壊されたカメラを持っているこの男、共同監督、ブルナトの物語を、わたしが見いだし得ると、恐らく考えた。
わたしは、もうひとりの監督、イマド・ブルナトが、日曜日と火曜日、質問に答えるために、映画フォーラムに来ることを知り、あなたに行くよう勧める。
今日、わたしが電話しているとき、ひとりの友人が、映画はアラブ人に人間性を与える?と、訊ねた。そうとも。そうとも。それは、平和的闘争への村の参加と、その家族生活を示す。それは、彼らの子どもたちや年長者への愛を、デモンストレーションの人びとの臨終の悲嘆を示す。人間を人間とすることのすべて。
それはまた、イスラーム恐怖症を助長するのに人びとが使用するイメージすべてを払拭する。主要な役どころの妻、彼女は髪を覆う -- そしてコーランの朗誦を背景に、デモンストレーションで犠牲となった人びとを運ぶ人びとのいるいくつかのムスリムの葬儀 -- しかし、これらのものが、完全に常態と見える。これらは、彼らがあるところの:人びとの完全に常態の日常生活に見える。
なぜわたしが、そもそもその映画に行ったか?、別の友人は訊ねた。まあ、昨日の朝、わたしは、ニューヨークタイムズの芸術欄で『壊された5台のカメラ』の批評を見た。A.O.スコットによる批評の本質は、これは扱いにくい問題、ここに正義も不正もなく、それは悲劇だ。その批評に基づくわたしの最初の気分は、その映画を観に行かない、だった。
その後、タイムズがかなりしばしば逆だから、わたしは観に行くつもり、と言った。まあ、わたしは、自身のためにそれを観に行き、批評の扱ったものと映画の扱ったものの間のギャップに、唖然とするのみでことばもなかった。その映画を観るなら、なぜ彼らがそれに好評を示さなかったのか分かる、彼らはパレスチナ人に共感する何かを売り込みたくない。
原文:Mondoweiss
この映像、『壊された5台のカメラ』のプロモーション・ヴィデオ(多分)に、デモンストレーションにイスラエル軍が発砲した催涙ガスキャニスタに撃たれて倒れたバシム・アブラフメが映る。彼は大きかったので、象、「フィール」と呼ばれ、この映像でも「フィール」と呼ばれている。
アーカイヴ:彼の名はバシム(2009年04月28日)