2012年08月07日

「ぼくが盲目と母に告げないで」:ムハマド・ブラシがイスラエル刑務所の暗黒の中で光をつかもうとする

Shahd Abusalama
2012年07月28日土曜日

パレスチナ抵抗によりその戦車から捕捉され、5年間、捕らえられたイスラエル兵、ギラード・シャーリトは、「テロリスト」パレスチナの「被害者」として世界的に知られる。

しかし、世界が、わたしたちパレスチナ政治囚のことをいかに殆ど知らないか見るにつけ、わたしを激怒させる。(シャーリトの場合と違って)ひとりだけではない。イスラエル刑務所で15年を過ごしたわたしの父さんが、彼の拘留について頻繁に評したように、むしろ「生者の墓場」といったイスラエルの鉄格子の向こうに、5000人ほどのパレスチナ人がいる。

昨夜、政治囚に関する最新ニュースをたどっていて、わたしは、「拘留者ムハマド・ブラシの健康状態が悪化している」と読める表題に遭遇した。わたしが、以前その名を読んだことがないことは殆ど確かだ。

イスラエルの刑務所に閉じ込められたパレスチナ・ヒーローすべてのように、ムハマド・ブラシは、どんな心も動かす彼自身の物語、人間的で英雄的な物語を持つ。わたしは、偶然に - そして涙ながらに - 彼の手紙、「ぼくが見えなくなったと母に告げないで」を読むまで、彼を知らなかった。

わたしは、32歳のムハマド・ブラシを詳しく紹介したい。しかし、わたしはまず、彼自身の詩的ことばに、彼が誰か語らせたい。彼の手紙のわたしの翻訳をここに:

ぼくがもはや見ることができないと、母に告げないで。彼女はぼくを見ることができ、ぼくは見ることができない。暗闇がぼくを満たすまで、ぼくの眼に広がった病気の後、ぼくが見えなくなったと彼女は知らないので、彼女が、ぼくの兄弟姉妹、友人、隣人たちの写真を見せるとき、ぼくは笑顔を装う。

角膜移植手術を受けるためぼくが何年も待ったと、彼女に告げないで。しかし、イスラエル刑務所業務は、ぼくをとり残すすべての理由をぼくの両眼に与え、引き延ばし、そして引き延ばした。

ぼくが見ることができた幸福な日々の、ぼくが思い出す最後のものが、ぼくに向かって走りながらパレスチナ旗を振って、「殉難者、殉難者」と叫んでいた小さな子どもと、彼女に告げないで。

ぼくに命中した爆弾の榴散弾破片がまだ、ぼくの身体に鎮座していて、ぼくの左脚が切断され、プラスチックのに替えられたと、ぼくの母に告げないで。もう一方の脚が腐敗し、血液と生命を干上がらせると彼女に告げないで。

囚人が生命なき生存を生き残り、人間以下のものとして扱われると、ぼくの母に告げないで。彼は、灰と鉄、邪悪と絶望のみとの遭遇を判決される。


(略:長いのでところどころ)

ぼくが夜不眠をかこち、ぼくの身体を麻酔する間、ぼくが鎮痛剤の慈悲の下で生きると彼女に告げないで。ぼくが、ぼくのもをなくし続け、鉄のベッドにのろのろ進み、あるいは、ぼくの近くで眠る別の囚人に、トイレに行くのを手伝ってくれるよう起こすと、彼女に告げないで。不眠が常にぼくを苛み、眠りは決してぼくを訪れないと、彼女に告げないで。

イスラエル、21世紀の国家が、その刑務所を疾病を植え付ける場所、肉体がゆっくり破滅する場所に変えてきたと、彼女に告げないで。


(略:長いので)


ムハマドについて知る

この手紙が、ムハマド・ブラシの人格とのわたしの精神的関係を開始した。彼は、わたしの人生のインスピレーションの新たな源泉となり、パレスチナ政治囚問題でのわたしの信頼を深めた。

ムハマドは、不服従キャンペーン、2011年9月末に開始された22日間大規模ハンガーストライキの間、彼の感動の手紙を、エシェル刑務所からこっそり持ち出し得た。彼や彼の仲間に対するイスラエル刑務所業務の非人道的慣例に光を放つ試みで、彼は、医療怠慢の自身の経験を共有した。彼らが大規模ハンガーストライキを始めるときはいつも、医療の質は、常にわたしたちの拘留者の要求リストの頂点にある。

(以下、かいつまんで)
ムハマドをもっと知りたくて、彼の家族を訪ね、物語を聞きたいと願ったが、イスラエルのアパルトヘイトが、ガザの誰かが西岸の誰かと会うのを不可能とする。

ムハンマドの弟からのメッセージ

(ここもかいつまんで)
検索してわたしは「拘留者、ムハマドとラムズィ・ブラシ」というFacebookページをみつけ、ムハマドの手紙にどれほど感動したか掲示を残した。すぐにわたしは、彼の22歳の弟、ハムザ・ブラシからメッセージを受け取った。

ムハマドの家族は元来、1948年に民族的に浄化されたアブショーシャ村出身だ。彼の祖父母は、彼らがまだ住んでいる、ラマッラのアルアマリ難民キャンプに逃れた。

イスラエル兵士らにより弟が殺され、ムハマドは爆弾で負傷

第二次インティファーダの始まりで - 2000年9月開始 - イスラエル占領軍は、アルアマリに侵攻し、人びとを虐殺し、その家屋を破壊した。武装兵士が、ムハマドの15歳の弟、スブリを、彼が石を投げているとき彼の命を切り詰め、撃った。これが、ムハマドを抵抗に加わり、民衆の尊厳と安全の意識を防衛するよう動かした。

同時に、ムハマドは警官として働いた。2001年、彼は、イスラエル検問所から50メートルのパレスチナ警察署を警備する夜勤だった。帰宅するため彼が車に乗り込むと、爆発した。その後、彼は、爆弾が車の中にあったと知った。誰がそれをしたのか疑いがあったが、彼の兄弟は「ぼくたちの敵は唯一:イスラエル! 物語の残りが、この犯罪に対する責任の彼らの否認が嘘と証明するだろう」と答えた。

「ムハマドは、爆発からかなり遠くに見つかった」と、ハムザは電話でわたしに語った。「人びとは、彼らが殉難者を見つけたと思った。しかしありがたいことに、爆弾は彼を殺さなかった。それは彼を盲目にし1本脚にしただけだった」。

ムハマドは政府の病院に運ばれた。しかし、彼が半死半生であってさえ、彼は再び攻撃された。「覆面の男が、彼の病室に入り、その指をムハマドの、爆弾で既に見えない眼に突き刺した」と、ハムザは怒りで語った。「その後、彼は民間病院に送られ、警備なしにひとり残されることはなかった」。

2003年の逮捕

「しかし彼は、どうして刑務所に入ることに?」と、わたしは尋ねた。

「2003年2月17日に、イスラエル軍は、拘留キャンペーンの準備でアルアマリを包囲した」と、ハムザは答えた。「ぼくたちは、ムハマドが標的になるとは思いもしなかった。彼の障害で、どうして彼が、イスラエルの安全を脅かし得るのか?」

「イスラエル兵士の巨大な部隊が、ぼくたちの家を襲撃した」と、彼は語った。「彼らは、立っていようとして壁に寄りかるムハマドを見つけた。彼らは、彼を攻撃し、まるで彼が見え、逃げることができるかのごとく、彼に手枷し目隠しし始めた。兵士らは、彼の障害のため、彼を苦しめ始めまた」。ハムザは、兵士の指揮官が「我々はお前が死ぬことを欲したが、生きてると聞いて、我々はお前が我々の客人となるべきと考えた」と、ムハマドに告げるのを聞いたと、わたしに語った。

(略:長いのでところどころ)

最初、イスラエルの裁判所は、ムハマドに、7終身刑を判決した。しかしその後、彼の健康状態に照らし、3終身刑プラス35年に減刑された。「まるでこの無慈悲な法廷が、違うことをなしたかのように!」と、ハムザは怒って語った。「終身刑1回で、イスラエルの刑務所を彼の墓にするのに十分だ」。

ムハマドは、彼の判決のうち10年間を服してきて、彼がいつか解放されるか誰も知らない。逮捕以来毎日、彼は、医療無視に苦しんできた。それは、ムハマドを暗黒のふたつの形態:色のない黒しか見ない彼の見えない眼と、彼の人生の最後の日を過ごすだろう、彼が日々死にいく暗い房、に取り残す。

50人を超える囚人が、肉体的に、あるいは精神的に、障害者だ。投獄を思い返して父さんが語ったように「イスラエル刑務所業務の無慈悲な獄吏により拘留されることは、精神的健康を脅かすのに十分だ」。

良心のいかなる断片かを伴ういかなる心情における適否のいかなる感覚をも犯すイスラエルの恥ずべき犯罪の殆どは、セキュリティの名のもとに犯された。しかしいかにして彼らは、彼らの安全を殆ど危険にさらすことができないムハマドの事例を正当化できるのか?

全文:The Electronic Intifada
posted by mizya at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | article | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする