2012年08月19日
ジャヤダ一家は、彼らの車が攻撃され炎上したとき、祝日の食事を買いにスーパーマーケットに行く途中だった。
PHOTO: SCREENSHOT
ジャヤダ一家が、ラマダーンの終了を祝って家にいると計画した日、日曜日、彼らは代わりに、彼らの家族の生命が非常に危険で、Ein Keremのハダッサ大学メディカルセンターの玄関をゆっくり歩いた。
木曜日午後5:30ごろ、エルサレムの南、Bat Ayin入植地近くで、家族の一員が運転する彼らのタクシーが、警察がユダヤ人過激派により犯されたと考える攻撃で、火炎瓶をぶつけられ、家族の6人は重傷を負った。
車は燃え上がり、ひっくり返った。被害者のふたりは、昏睡状態のアイマン・ジャヤダ、重態のジャミーラ、そして、話し好きなのに彼の身体の殆どを覆うやけどの痛みを緩和するため使用される薬でまどろむハッサンを含め、集中治療に残る。
もうひとりの兄弟、異なる病室の家族たちの間を往復するハイサムは、電話を受けたときの衝撃を説明する、心配する近親者二十数人に跡を追われた。ナハリーンの子ども10人の家族の兄弟たちは、ハイサム・ジャヤダ、30歳によれば、ヘブライ語をよく話し、投獄されたこともなく、イスラエル当局と争ったこともなかった。
「それは、ぼくがかつて見た中で最も衝撃的だった。ぼくはアイマンの病室に入り、それが彼と了解できなくて、そして再び出てきた。彼の顔が焼き払われて、彼と認識できない。ぼくたちは、子どもたち4人を彼に会わせさえしなかった、あのような父親に子どもを会わせるべきでないので」と、彼は語った。
ナハリーン村の半分は、ここ、病院にいると、彼は語った。彼らは皆ここにいて、家族の傍らで夜通し看病しているのだから、ナハリーンで今年イード・アル-フィトル(ラマダーン明けの祝日)はない。ハイサムによれば、先立つ攻撃が、村の車を標的としてきた。
彼らの村と道路が繋がるのはエリアC - 彼らが完全なイスラエル支配下に残ったことを意味する。
「ぼくたちは、この攻撃の責任をイスラエル治安部隊に帰する、というのも、向けるべき他の誰もいないのだから。ぼくたちは、完全にイスラエル軍支配下にあり、したがって、ぼくたちを保護することは彼らの仕事で、ぼくたちは、そうしないので彼らを非難する」と、彼は語った。
彼は、道路2本だけが、村を離れるのに利用可能で、それらに対する頻繁な攻撃は、軍とメディアの両方から無視されるのが常と説明した。以前は利用した第三の道路は、どうやら、Neveh Daniel入植地の防衛のため、IDFにより閉鎖されてきた。
「これは初めてのことでない - 近くの入植者らは、前にもぼくたちに火炎瓶を投げつけたことがある、石も同様」と、彼は語った。
(略:長いので)
全文:The Jerusalem Post
しばしば100MB(無料で使える容量)に達したなら、このboycottilへの記事掲載を終了すると予告してきたけれど、この記事で100MBとなった。100MBがこれほど大きな容量とは想像もしなかった。2008-2009年に渡ったイスラエルによるガザ攻撃に衝撃を受け、2009年2月に開設したboycottilだったが、1年ほどのつもりだったのに、2012年8月まで、3年6ヵ月続いたことになる。その時間は、わたし個人にとり、決して短いものではなかった。
イスラエルによるパレスチナの家屋破壊・農地破壊、土地没収、水を含む資源の没収、追い立て、抗議行動に対する弾圧、理不尽な逮捕、拷問を伴う尋問、刑務所での虐待などが、日々繰り返される。エスカレートする暴虐が過去を覆い隠してくれると、イスラエルは考えているのだから、日々繰り返されるどのひとつも、わたしたちは忘れないと決意しなければならない。忘れないために、時折、このboycottilにアクセスいただけるなら、これほど喜ばしいことはない。
2009年にスーザンがいくつかの記事の翻訳を手伝ってくれた。彼女に感謝。翻訳に10人ほどで携わることができたなら、もう少し続けることができたかもしれないと思わないわけではないが、3年6ヵ月は、ニッポンのマスメディアが、如何に米国の報道を通してしかパレスチナ問題を報じてこなかったかを示すのに充分な期間だったとも思う。今後は、長らく放り出したままの『オリーヴの庭から』で、オリーヴに特化した、別の切り口のパレスチナを伝えていきたい。アクセスしてくださったみなさまに心からの感謝を... mizya