2011年01月25日

家屋破壊でロッドに新パレスチナ難民キャンプ

2011年01月19日水曜日
Tania Kepler for the Alternative Information Center (AIC)

テルアヴィヴの南東15キロメートル、イスラエル・ベングリオン国際空港の隣に難民キャンプはある。74人が、ロッド市のアブ・エイド・キャンプでテントに住んでいる。

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パレスチナ大家族が今、かつて家々の中で眠った同じ場所のテントで眠る。

 ロッドは歴史的場所で、紀元前5600-5250年に遡る。都市住民は、ローマ、アラブ、十字軍、オスマン帝国、イギリス委任統治を通して生きた。今日、ロッドは、高い犯罪割合と薬物使用で知られる分割された都市だ。2010年、住民は6万9500人を数え、およそ3分の1がパレスチナ人である。

 これはしかしながら、いつもそうだった訳でない。 イスラエル国と1948年のナクバ以前、それは、港湾都市、ヤーファから遠くない、小さな平和なパレスチナの町であった。

 19世紀半ば、アメリカ人宣教師、ウィリアムM.トムソン博士がロッドを訪れたとき、彼は「2,000人ほどの住民の、オリーヴ、イチジク、ざくろ、桑、スズカケ、他の樹木の見事な果樹園に囲まれた繁茂する村は、大変肥沃な近隣にすべての方向を囲まれている」と描写した。

「住民は明らかに勤勉で、繁栄しており、そして、こことラムレの間のいなか全体が、彼らの繁茂する果樹園でしっかり満たされている」とトムソンは書いた。「収穫の初期に呈されたこれより喜ばしい田園風景をみることはまずない... 鑑賞されるため、それは、見られ聞かれ味わわれなければならない」。

 都市の美と平穏は、長くは鑑賞されなかった。1948年7月、イスラエル軍は、ロッドに突進した。兵士らは、通りの人びとを撃つよう命ぜられ、何百人ものパレスチナ人が殺された。ロッド住民の殆どは、ラマッラのような都市へと逃れた。ほどなく、シェルターを求めて、国の他の地域からの難民家族たちが到着した。

 アブ・エイド一族も、そのような家族のひとつだ。彼らは、1950年代、北部の村から到着し、家を建設し、生活を営んだ。彼らが、共同体を再建し、確立するため努める一方、イスラエル政府は、新ユダヤ移民の入植の場所として、ロッドを使い始めた。今日、この都市の住民の33%は、国に新たに到着したものたちだ。

 2010年12月13日、イスラエル土地当局 (ILA) は、ブルドーザと何百人もの警察官で武装してロッドに到着、アブ・エイド家の敷地に入り、家屋6棟とオフィスビル1棟を破壊した。子ども54人を含む74人が、ホームレスとなった。

(略:イスラエル国内でのパレスチナ人からの土地強奪の構造は被占領地と変わらない)

全文:The Alternative Information Center


posted by mizya at 03:31| Comment(0) | TrackBack(0) | article | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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