2011年04月11日

デイル・ヤシン (1948年4月9日)

1948年4月9日、イルグンとシュテルン・ギャング民兵らは、パレスチナ村、デイル・ヤシンを攻撃した。パレスチナ人の男、女、子どもたち100人以上がすべて、系統的に殺害された。この虐殺は、パレスチナ人を彼らの家から離れるよう導いたパニックを引き起こしたとしてしばしば引用される。デイル・ヤシンは、パレスチナの市町村、400以上の意図された人口減少とパレスチナ人口の70パーセントの追放の最も際立った初期の兆候としてある。

原文:The Electronic Intifada

アーカイヴ:デイル・ヤーシン虐殺の記憶(2010年04月10日)

 1948年4月9日から63年、今年も、デイル・ヤシン虐殺の日がやってきた。デイル・ヤシンは、国連分割決議に従えば、建国されるユダヤ人国家にではなく、パレスチナに残される領域にあった。現在の西エルサレムだ。この虐殺を、建国前のイスラエルは喧伝し「家に残るならパレスチナ人に待っているのは虐殺」と脅し、家から逃れた人びとの土地家屋を「不在者地主」法で強奪した。

 2011年3月11日、東京電力の原発は制御不能に陥った。1ヵ月後の地方選の結果に、わたしは唖然としている。東京電力の事故を受けて、ドイツの選挙で原発が争点となり、原発推進派が破れているのに、放射能降り注ぐこの国では、原発推進派が圧勝しているのである。町中の家々からネズミが出てきて道路という道路を埋めつくし、海に向って入水する、わたしたちはそのネズミなのだと見出して、唖然としないでいるのは難しい。

 デイル・ヤシンから63年経った今も、イスラエルのパレスチナ人虐殺の政策に変わりはない。しかし、パレスチナ人はもはや家を離れない。
posted by mizya at 11:37| Comment(0) | TrackBack(0) | article | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック