「このトラクタは二つのことをやるのだ - 土地を鋤き返し、われわれを土地から追い出す。このトラクタと戦車に違いは殆どない。両方に、人びとは追い立てられ、脅かされ、傷つけられる。これについて考えなければならない。」
- ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』(1939)、第14章
おびただしい破壊の犯罪行為とイスラエル政府プロパガンダの終わりなき集中にも拘らず、新ガザ小艦隊が、出航の準備が整う時、New York TimesのEthan Bronnerは(信頼する相方、Fares Akramの助力で)、封鎖された天蓋なき刑務所で、どのような素晴らしき贅沢な生活(が送られている)かを示す記事を発表することにより、ガザの苦難から注意を遠くに逸らすシオニストの最善をつくしてきた。
6月28日、Bronnerは、「元入植地の土に根づく潤沢な収穫」と題した記事を発表した。Timesのオンラインヘッダーに:「ガザは元イスラエル入植地に食糧独立を確立」と読める。 これら垂れ幕につきもののわかりやすい議題を超えて、記事自体は、歴史修正主義、土地償還、花咲く砂漠の古来シオニストの比喩を宣伝する。
Bronnerは始める:(Bronner記事翻訳省略:嘘を翻訳する時間はないので)
Bronnerが省いたことは、ガザでの、支援依存の広がりと人道危機だ。今週前半、国連救済事業機関 (UNRWA) の専任理事、Chris Gunnessは、それをこう記す:(これも翻訳省略:ガザの状況は何度も掲載してきているので)
実際結果は、ガザを荒廃させ、いかなる類いの景気回復も不可能にした、輸出の殆ど完全な禁止だった。パレスチナ・トレード・センターによる2010年報告から取られた下のグラフは、2006年6月から2010年7月までの年次輸出傾向を示す。(グラフは原文参照)
(略:グラフの説明)
(略:Bronnerによる恵まれたガザの描写と、その描写に対する欺瞞の指摘)
1970年代にここ(ガザ - 訳注)に来始め、イスラエル軍が、彼らを移動させた時、生計と家屋を失った元ユダヤ人入植者らにとり、トラウマの根源は残っている。彼らが、その損失を嘆き思い出す仕方は、時々、パレスチナ難民が彼等のものを嘆く仕方に、衝撃的類似を帯びる。
(略)
元CIA当局者で現在ジョージタウンの教授、Paul Pillarは、Bronnerの当惑に反応し、National Interestの彼の最新の発表で雄弁に応答する:
彼らの家族が何世代も占領してきた家屋から征服軍により追い出された難民の運命と、後で彼らを引きずり出した征服政権により据え付けられた入植者の身分の間に、道徳的あるいは法的同等性はない。それにも拘らず、イスラエル政府が、イスラエルが長い間アラブ政権の利用を非難してきた、同じ技法 - 強制退去されたひとたちが国際紛争の議論を支えるため使用する - を採用しているように見えるのは、皮肉だ。
(略)
Bronnerは、元入植農夫、エルサレムのGush Katif博物館の創設者で館長のShlomo Wasserteilの、それら昔の年月すべて、ガザへの彼の到着を思い起こす、砂漠-開花主義のシオニストの台詞の反響を引用する。「サハラのごとく、砂より他何もなく、鳥さえいなかった」と、Wasserteilは語る。「我々は世界一のトマトをつくった。我々は砂での耕作に革命を起こし、その方法をヨルダンの隣人に教えた」。
(略)
その情緒は、5月の独立記念日祝賀で、シオニストの実績を「我々は、強情な地面から発芽する庭をつくることができると立証した」と称賛したイスラエル大統領、シモン・ペレスにより繰り返された。
(略:長い)
イスラエル人ジャーナリストで歴史家、メロン・ベンヴェニスティは、そのような声明が、古典シオニスト神話の本質で、「アラブ人すべてを砂漠の息子と描写」するのを補強し、「進歩と開発に対する野蛮な砂漠」に貶めると説明してきた。
(略)
しかし真実は、パレスチナの土が実際、果実、野菜、土地原産の他の無数の作物を生産するため、ユダヤ人専門家の農業ノウハウを必要としなかったということだ。イスラエル以前のパレスチナは、シオニスト幻想の不毛の砂塵地帯ではまったくなく、遥かに遠い。
1945年12月と1946年1月、包括的「パレスチナ調査」が、パレスチナに関する国連特別委員会に代わってイギリス委任当局により実施され、発行された。調査は、土地が、アラブ人パレスチナとユダヤ人農夫も同様、かなり繁栄していたと明らかにした。
1944年-1945年の植え付けシーズンで、パレスチナで、およそ21万トンの穀物が栽培され、ユダヤ人の収穫高、1万6579トンと比べ、19万3376トンがアラブ人の収穫高だった。その年、およそ8万トンのオリーヴが栽培されたが、アラブパレスチナ人により育てられたのは7万8000トン以上だった。そのシーズン、パレスチナで、24万4800トン以上の野菜が生産され、18万9000トン以上をアラブ農夫が担った:果実、9万4700トンで、アラブの果樹園は7万3000トンを産した。その領域の柑橘類の林の殆どすべてが、パレスチナ人に所有され運営された。およそ14万3000トンのメロンが栽培され、アラブ生産は13万5600トン以上、一方、タバコ、1,680トン以上の殆どすべてが、イチジク2万トンとアーモンド3,000トン同様、アラブ農場で育てられた。4万から5万トンのブドウの80パーセントと、400万から500万リットルのワインはアラブブドウ園で生産された。 調査は、エリコ、ティベリアス、中央沿岸平野の「バナナが植えられた領域のおよそ60パーセント(およそ8,000ドナム)が、アラブ人に所有されている」と見いだした。そのシーズンのパレスチナ農業生産高の総価格は、2180万ポンド以上だった。総価格の殆ど80%を占める1710万ポンド以上のパレスチナアラブの生産と比べ、ユダヤ人の栽培は、471万1000ポンドを担った。
(略:この後、どのように土地が奪われ、パレスチナ難民帰還を阻むため肥沃な大地が蹂躙されていくかが続く)
全文と画像4点とグラフ:Wide Asleep in America
パレスチナが、まだパレスチナだった頃の、パレスチナ農業とユダヤ農業の収穫高の比較は、この頃ユダヤ人が所有する土地が、パレスチナ全土の7パーセントに満たなかったこと、引き換え、ヨーロッパのユダヤ人差別から逃れたユダヤ人不法移民が、この頃パレスチナ人口の1/3ほどに達していたことを考慮する必要がある。いわばユダヤ人農夫たちは、狭い土地を多くで耕したわけだ。