2011年11月27日

あるパレスチナ人にとり、自由は刑務所より危険

2011年11月25日

シャーリト取り引きで解放された、殺人で有罪判決を下されたパレスチナ人、ハニ・ジャベルは、ヘブロンの彼の家にあえて帰ろうとしない:入植者らは、彼を殺すと脅している。

ギデオン・レヴィ

ハニ・ジャベルは、1分といえど、まだ家に戻っていない。彼は、イスラエル刑務所で18年を過ごした後、シャーリト取り引きで解放され、もはや1ヵ月以上、自由人だった。彼は、他の解放の囚人の多くのように、追放されなかった。しかし、彼は、帰宅もしていない。ジャベルは、生命を心配する。イスラエル軍は、彼に帰宅しないよう助言した。解放以来、彼は、ヘブロンの親族が所有するアパートに隠れ、あえて通りに出ることはせず、恐れの中に暮らす。彼は、迫害されていると感じる。

尊敬されるクネセト・メンバー(MK/国会議員)が、彼自身、殺人を唱道することを許される国で(「解放の殺人者を殺す手に祝福あれ」と、ナショナル・ユニオンのMK、Aryeh Eldadは、囚人たちの釈放後のその日語り、そして誰も、彼が審理されるべきと考えない)、ジャベルは、マークされた男だ。入植者らが、釈放の囚人に関する契約を結ぶことができる国 - ジャベルの居場所の情報に10万ドルの賞金が提示され、ヘブロンには、彼についての情報を人びとに促すヘブライ語とアラビア語のポスターが貼られている - で、ジャベルは、見たところ、余生を送っている。

ジャベルの手は血塗られた。18年前、入植者らにより、頻繁な虐待と攻撃を経験し、彼の家族が同様に扱われるのを見た高校生のとき、彼は包丁をとり、妹を攻撃したと彼が語った、入植者、Erez Shmuelを殺害した。ジャベルは、終身刑2回の判決を受け(2つ目の終身刑の理由は不明確)、彼の判決の一部に服し、合法的に釈放された。しかし彼は、自由人として今あるより、刑務所での方がずっと安全と感じている。(略)

現在36歳、ひげを蓄え、自制ある、屈強で広い肩を持つ - 彼は、刑務所での年月、明らかに健康を維持した。彼は、ヘブライ語を少し学び、パレスチナ人公安囚人に課されたより厳密な条件が彼の学問を止めるまで、ヘブライ大学の中東学科通信教育課程を2学期修めた。彼はまた、ハマースの男たちと監房を共有するうち、刑務所で宗教的に遵守するようになった。ジャベルは今、息子に寄り添って保護し、彼の命を気遣う、スーツとネクタイを身につけた心配の人、彼の父親、ラムシより宗教的だ。ジャベルは、ヘブロン中心のある安全な家でのわたしたちの会談に、父親に伴われ、やってきた。「彼はぼくのボディガード」と、彼は笑って言った。

彼らの家は、ヘブロンのエリアH2、イスラエル支配下にある、民族浄化された地域の中心にある。彼らは、暴力的入植者らのまっただ中、「家長の墓」(イブラヒミ・モスク:訳注)近くに住むことを許された僅かなパレスチナ人の中にある。墓の向かい側のラムシの土産物店は、長く閉じられたままだ。家族は、この地区の住民の多くがしたように、入植者テロから逃れ、安全な場所に移るすべを持っていない。それは、店舗が閉じられ、家々が見捨てられた、今やゴーストタウンである。

ジャベルの幼年期の記憶は、攻撃と大量虐殺でちりばめられる。あるとき、武装した入植者4人が、彼の家の近くの通りで彼を攻撃し、彼のあごを折って、彼を入院させた。1ヵ月というもの、若者は食物を口にすることができなかった。ジャベルは、イスラエル警察に訴えたが、彼らは何もしなかったと語る。別のとき、彼の脚は、入植者らの攻撃で砕かれた。彼は、入植者らが、彼の姉妹とその友人たちの頭から、慣例的に、頭覆いをはぎ取り、ごみと糞便で満たした袋を彼らに投げつけるのを見た。陣痛で出産に行く途中だった女いとこ、アズィザ・ジャベルは、恐らく隣接するキリヤト・アルバ入植地の、入植者らに射殺された。殺されたとき、彼女は30歳だった。

その事件で、彼の怒りは高まった。彼はまだ高校で、いかなる組織との結びつきもなかった。彼は、ひとりで行動し、天罰を必要とすると決めた。1993年5月29日、入植者が、学校から帰宅する9歳の妹を攻撃した。ジャバルは家に急ぎ、包丁をとり、激怒の発作がErez Shmuelに降りかかり、彼の胸を突き刺し、彼のピストルをとった。Shmuelは、崩れ落ち死んだ。その事件は、ジャベルの家から30メートルほどで起こった。若い殺人者は、彼がしたことを、両親にも友人たちにも誰にも言わなかった。6ヵ月が経過し、彼は通常通り、毎日 - 外出禁止令がない日には、学校に行く彼の生活を続けた。彼が、いかなる組織との関係も持っておらず、彼がしたことを誰も知らなかったという事実は、彼を一時的に逃すことができた。

ジャベルは今、妹を攻撃した人間に復讐を遂げ、彼が正しいことをしたと思ったと語る。しかしながら、彼は、その時でさえ、彼の行為で解決したことは何もなかったと理解した。入植者らの攻撃は悪化するばかり、また、外出禁止令と封鎖は、拡張された。殺人の後、誰かが彼を認める必要を感じたと、彼は言い、彼は、組織のひとつ - ファタハ、ハマース、あるいは人民戦線 - に加わろうとしたが受理されなかった。

半年後、パレスチナ住民地区に、無期限外出禁止令が課されたある日、兵士らは到着し、その地区で広範囲の逮捕をした。ジャベルは、拘置されたものの中のひとりだったが、兵士らは、彼が殺人で指名手配されたとは思わなかった。彼が組織のひとつに加わろうとしたのをイスラエルが知って、逮捕されたと、彼は考える。彼は、ナブルス刑務所に連れて行かれ、シンベト公安業務により尋問され、隔離して置かれた。25日後、彼は、他に話すことを誘発させるのが仕事のおとりらのいる部屋に入れられた。彼を煽動して、彼らは、いとこの殺人に復讐するために彼が何をしたか尋ねた。彼らはまた、彼ら自身の英雄行為を自慢した。しのぐことを欲するでなく、若いジャベルは、彼もまた、自慢の種を持っていると彼らに告げた。

人権組織、B'Tselemの実地調査官、わたしたちをジャベルとの会談に連れて行ったムーサ・アブハシュハシュは、微笑む。彼は、数年前、彼が数日拘留され、おとりらが彼の監房に連れてこられ、彼もまた英雄行為を自慢したかったが、告げることが何もなかったことを思い浮かべる。ジャベルが、隔離されて5ヵ月過ごしたと語ると、アブハシュハシュは、11日間隔離され、彼の世界は終ったと思ったと語る。

(略:長い)

全文:Haaretz.com


posted by mizya at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | article | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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