パレスチナ人権センター
「最初の2年、わたしは凌いだけれど、今年、母の喪失から多くを被ってきた。母親と共にいる、あるいは母親について話す少女たちと学校で会うとき、わたしはもっと母がいなくて寂しいと思う。わたしと共に彼女にいて欲しい」
ヒッバ・アンナッジャル (17) がフザア村の自宅向かい側に座る (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)
2009年1月13日早朝、家屋破壊の2日間に続き、イスラエル軍は、高性能爆発物と白リン砲弾を使用し、フザア村とその周辺に砲撃を開始した。イスラエルのブルドーザ、戦車、狙撃兵が、村の端に陣を構えた。7:00時ごろ、兵士らは、フザア東部の住民たちに、その地区を離れ、村中央に向けて移動するよう命じた。白旗を掲げ、ラウィーア・アンナッジャル (47) は、女たち20人ほどの集団を率い、命じられたように離れようとした。集団が最初の角を曲がった直後、兵士がラウィーヤを射殺した。集団のもうひとり、ヤスミン・アンナッジャル (23) が、ラウィーアを道路から連れ出そうとして、銃弾2発で負傷した。ラウィーアの遺体を引き上げようとして、医療スタッフが撃たれ、近くの家に避難しなければならず、遺体を通りから引き上げることができたのは、10時間以上も経ってからだった。
「わたしには、母の頭に命中した弾丸の音がまだ聞こえる。兵士が、家の戸口に突き進んで彼女を撃ったとき、わたしは、彼女のすぐ傍らに立っていた。わたしは彼を見ることができた」と、ラウィーアの17歳の娘、ヒッバは、両腕で状況を描きながら語る。「通りで白い布を掲げているわたしの母を、なぜ彼らが殺したのか、その朝早く、家の屋上にいたとき、なぜわたしは殺されなかったのか、わたしは考え続けている」。ヒッバは、その日起こったことの意味が、まだ解けないでいる。
(略)
全文:International Solidarity Movement
アーカイヴ:2009年1月12日:アヤド家(01月14日)
:2009年1月11日:ハムーダ家(01月14日)
:2009年1月10日:ワファ・アルラデア(01月11日)
:2009年1月9日:アブオダ家(01月10日)
:2009年1月8日:アルラヘル一家(01月10日)
:2009年1月7日:マタール家(01月09日)
:2009年1月5日:アマル・アッサムーニ(01月07日)
:2008年12月31日:アブアリーダ一家(01月05日)