パレスチナ人権センター
「ぼくたちは、その日何が起こったのか、互いに話しながら夜遅くまで起きていただろう、ぼくたちは兄弟だった、ぼくがなにかしら必要だったら彼らのところに行けば、彼らは手伝ってくれただろう」
ムハマド・ムーサ (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)
2009年1月14日、21:00ごろ、イスラエルの航空機が、ガザ市南部のアッサブラ薬局に近いムーサの自宅を標的にした。イッズ・アッディン・ワーヒド・ムーサ、48歳、その妻、マイサラ・アフィフ・ムーサ、48歳、彼らの息子、ワーヒド・イッズ・アッディ・ムーサ、28歳、アフメド・イッズ・アッディ・ムーサ、27歳、モハメド・イッズ・アッディ・ムーサ、22歳、そして娘、ヌール・イッズ・アッディ・ムーサ、15歳が、攻撃で殺された。
攻撃に起因する肉体的な傷跡は、25歳のムハマド・ムーサに、まだはっきり目に見える。彼の右腕と脚の両方の神経と骨を損傷して、彼は残され、強く片足を引きずり、彼の家を飲み込んだ火事で、彼が火傷を負った場所を、突っ張る皮膚のつぎはぎを陳列する顔が示す。彼の傷は、地元の大理石工場で働き続けることを不可能にし、父親、母親、妹、兄弟3人を失った後の、彼の人生の断片を拾い集めることを不可能にしたまま、彼を残した。
(略)
感情的に、ムハマドは、戦争以来大きく変わった自身を見出し、事件以来、眠るのに苦労してきた。「初め、ぼくは夜、全く眠れなかった。ぼくは一晩中、目覚めて座り、朝しばらく眠ったかもしれない」。彼を気短にする、他には当たり前な、食事の準備、といったような基本的なことをするための支援を、彼は今必要とする。「何か自分でできないと、ぼくは酷く苛立って腹を立て、忍耐をいとも簡単に失う」。これは、ドイツでなら得られると医師に告げられたと彼が語る、負傷の治療に関する、彼が感じる無力感により度を増す。彼はまだ、脚の骨と神経、腹部に受けた榴散弾での負傷で、広範な治療を必要とする。
「ぼくは、家族の悲運をも知らず、エジプトで4ヵ月(そのうち2ヵ月半は集中治療で)入院していた。ぼくの姉妹たちは最初、ぼくの回復のため、彼ら皆が元気だと言っていた。ぼくが、彼らにもう帰宅できると伝えたとき、ぼくに皆死んだとの知らせを告げなければならなかった。ぼくは即座に後戻りして、行くことができるまで、集中治療でさらに2週間過ごさなければならなかった」。
(略)
全文:International Solidarity Movement
アーカイヴ:2009年1月13日:ヒッバ・アンナッジャル(01月14日)
:2009年1月12日:アヤド家(01月14日)
:2009年1月11日:ハムーダ家(01月14日)
:2009年1月10日:ワファ・アルラデア(01月11日)
:2009年1月9日:アブオダ家(01月10日)
:2009年1月8日:アルラヘル一家(01月10日)
:2009年1月7日:マタール家(01月09日)
:2009年1月5日:アマル・アッサムーニ(01月07日)
:2008年12月31日:アブアリーダ一家(01月05日)