2012年01月19日

2009年1月15日:アンナディーム家

2012年01月15日
パレスチナ人権センター

「ナセルは、子どもの勉強、ことさら英語と数学を手伝ったものだった。今、それはわたしの義務。夫を失ったわたしに賠償し得るものは何もない。彼は常にとても優しく、理解深く静かだった」。

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マジュダ・アンナディームと彼女の息子、モハンナド、フィラス、バシャール (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月15日、7:00少し過ぎ、イスラエル軍は、ガザ市のタルアルハワ地区の家から逃げていた、ナセル・アンナディームと彼の息子ふたり、バシャール (17) とフィラス (15) に、戦車砲と実弾を発砲した。少年ふたりが中程度の負傷を被った一方、父親は重傷を負った。エジプトとガザでの9か月の集中治療の後、ナセル・アンナディームは、結局負傷により死んだ。彼は44歳だった。ナセルの妻、マジュダ・アンナディーム (45) は今、息子3人、モハンナド (19)、バシャール (17)、フィラス (15)、そして娘ふたり、ディマ (14)、ターラ (9) のひとり親だ。

「わたしを歩ませ続けるものは、子どもたち、わたしの子どもたちのみだ。わたしは、ダマスカス出身で、そこで学んでいた彼らの父親に会った。わたしたちは、1990年に結婚し、彼とガザに来た。わたしは、ダマスカスに戻ろうと、行って家族と住もうと常に考えるが、わたしは、ここガザにいるほうが子どもたちにとってよいと知っている。これは彼らの家。わたしは、彼らを護る何であれするつもり」と、彼女は息子たちに微笑んで言う。

世帯の責任すべてが、子どもたちの世話と経済に関する両方が、今マジュダの肩にある。「ナセルは、子どもたちの勉強、ことさら英語と数学を手伝ったものだった。今、それはわたしの義務。夫を失ったわたしに賠償し得るものは何もない。彼は常にとても優しく、理解深く静かだった」。

(略)

全文:International Solidarity Movement


 ガザの美術家に招待されて家を訪ねたときのこと、彼は食卓で自慢そうに「母はシリア人なんだ」と語ったものだった。シリアは料理が旨いとされる。「母は素晴らしいシェフなんだ」と同義である。アラビア語を話す同じ文化圏、国際結婚の感覚はないだろう、と思う。

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posted by mizya at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | document | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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