PCHR(パレスチナ人権センター)
オリーヴの苗木の傍らに立つアブデルアズィミとマズーザ・アブルジャイラ (Image from pchrgaza.org)
(以下は、「キャストレード作戦」から3周年を記す23の語りシリーズのうちの語り22である。新たな掲示が、事件が発生した3年前の日付と同じ、各々の日に公表されるだろう。語りは、パレスチナ人権センターにより促進されている。)
「そこに到着してわたしは、彼らの土地で作業するその地区の多くの人びとを見つけた。それは静かで、それだからわたしは、心地よく感じ、そこに留まった。突然、ジープの1台が境界で止まり、弾丸につぐ弾丸が発砲された。
2009年1月18日、10:00ごろ、イスラエルとガザ回廊間の境界に配置されたイスラエル軍が、ハーンユーニスの東、フザア村の東の彼らの土地で作業する農夫たちに向け、無差別に弾丸を発砲した。農夫のひとり、マヘル・アブデルアズィミ・アブルジャイラ (23) は、弾丸の1発が、彼の左腕と胸を貫き、殺された。
「マヘルは、畑でわたしの近くにいた。彼が『アッラー・アクバル』と叫ぶのを聞いたとき、彼はわたしの後にいて、わたしは、弾丸の1発が彼に命中したのを見いだした。人びとは悲鳴を上げ、地面に打ち倒れた」と、彼の父親、アブデルアズィミ・アブルジャイラ (59) は思い浮かべる。マヘルは、激しい砲撃下、馬車に運ばれ、次に車に移された。彼は、病院に到着して、死が宣告された。
「1月17日、イスラエルは停戦を宣言した」と、アブデルアズィミは思い浮かべる。「1月18日、多くの人びとが、そこの彼らの土地と家を調べるため、フザアの東に戻った。マヘルと(彼の兄)ユーセフは、土地に行き、彼らが心配だったのでわたしは彼らを追った。そこに到着すると、わたしは、その土地で作業するその地区の多くの人びとを見いだした。静かだったので、わたしは心地よく感じ、そこに留まった。突然、ジープの1台が境界で止まり、弾丸につぐ弾丸が発砲された」。ユーセフ (29) が、彼の弟の殺害後、PCHRに与えた目撃陳述によれば、マヘルと境界の間の距離は800メートルほどだった。彼は、その地区が静かで、電気技師たちもまた、その地区で作業していたと語った。
(略)
彼らの息子、兄弟の喪失を被ってなお、アブルジャイラはまた、彼らの農地の破壊と、到達不能の結果、経済的に苦闘する。兄弟たちと共に、アブデルアズィミは、イスラエルとの境界に近い、ハーンユーニスの東に4ヶ所の土地を所有する。
「わたしたちの土地は、オリーヴとオレンジの樹木が栽培され、わたしたちはその果実を売ったものだった。しかし、第二次インティファーダ開始以来、軍は、繰り返し何度もブルドーザで押し潰した。攻撃の前、わたしたちは日常的に土地に行き、夜遅くまで留まり、そこでバーベキューしたものだった。人びとはまだ、その地域に住んだものだった。わたしたちもまた、そこに建物を持っていたが、攻撃中、それらはすべて、作物と共に破壊された」と、アブデルアズィミは語る。
アブデルアズィミは、彼の土地の耕作継続を試みるとき、彼の息子を殺したのと同じ暴力に直面する。「昨年10月に、オリーヴの苗木を植林しようとしたとき、彼らはわたしを撃ち始め、わたしは離れなければならなかった。苗木は今、我が家の隣にある。4区画の2ヵ所に、わたしたちはもはや全く到達することができない。彼らがブルドーザで潰して以来、わたしたちはもはらそれらに到達できなかった。わたしたちがアクセスしようとすると、彼らはわたしたちに発砲する。それら畑は、50年もののオリーヴ樹が栽培されていたのに」。
(略)
全文:Jadaliyya
アーカイヴ:2009年1月16日:シュッラブ家(01月20日)
:2009年1月15日:アンナディーム家(01月19日)
:2009年1月14日:ムハマド・ムーサ(01月16日)
:2009年1月13日:ヒッバ・アンナッジャル(01月14日)
:2009年1月12日:アヤド家(01月14日)
:2009年1月11日:ハムーダ家(01月14日)
:2009年1月10日:ワファ・アルラデア(01月11日)
:2009年1月9日:アブオダ家(01月10日)
:2009年1月8日:アルラヘル一家(01月10日)
:2009年1月7日:マタール家(01月09日)
:2009年1月5日:アマル・アッサムーニ(01月07日)
:2008年12月31日:アブアリーダ一家(01月05日)