ectomorfoo
2012年02月26日
2012年2月25日、アルハリール(ヘブロン)のシュハーダ通り再開を要求して、抗議が、ロンドン中心、コベント・ガーデンで開催された。
この抗議は、アルハリールのイブラヒミモスクでの朝の祈りで、ユダヤ人過激派が、パレスチナ人参拝者29人を殺害し125人以上を負傷させた、バルーフ・ゴールドシュタインによる大虐殺の18周年記念に組織された。
アルハリールは、市街のホテルの部屋に立てこもって、離れることを拒絶した最初の宗教入植者らが、イスラエル軍になだめすかされ、近くにキリヤト・アルバ入植地を与えられた1969年以来、イスラエル占領下に置かれてきた。
10年後、行為は放棄された病院で繰り返され、このときイスラエルは、不法占拠者らがアルハリール市街に入植するのを認めた。
アルハリールのパレスチナ人の生活に対する制限は、バルーフ・ゴールドシュタインの大虐殺後、加速した。
アルハリール旧市街中心からのパレスチナ人とその暮らしの追放は、その地区が1997年にイスラエル支配H2となった後、制度化のプロセスとなった。
現在、少なくとも入植者500人と、少なくとも兵士2,000人が、アルハリールと西岸南部全体双方の経済的中心、シュハーダ通りを閉鎖してきた。
1980年代に始まり、第二次インティファーダ後に最高点に達するシュハーダ通りの段階的乗っ取りは、かつての忙しい市場をゴーストタウンに変え、住居1,000棟以上、店舗1,800棟以上の(しばしば強要的)放棄を引き起こした。
あなたの自宅の通りが封鎖され、軍により扉が熔接されたなら、あなたはどうするだろう。わたしの場合、アパートの2階のテラスから縄梯子を下げて庭に降り(3階でなくてよかった)、玄関と反対の通りに出ることになる。アーカイヴは、シュハーダ通りに面する扉が、イスラエル軍により熔接された、パレスチナ老婦人の、建物を昇り、屋上から別の建物に移り、違う通りにたどり着くまでの過程を追ったヴィデオである。
アーカイヴ:仮にあなたがこのサイトに何か見るなら(2010年07月13日)