2012年06月26日
B'Tselemにより得られた証言は、2012年4月、兵士らがムハマド・アッジル、13歳を、ベツレヘム県の彼が住む村、ハルマラで、3回逮捕したと示す。証言によれば、兵士らは、彼の最初の拘留中と、若者の拘留に関する法に違反して、両親の立ち会いもなく弁護士との協議も許されない彼の尋問中、少年を殴った。続くその後の拘留どちらもで、兵士らは、夜、手枷したまま、彼の家から遠く離れた彼の知らない場所に彼を残した。
事件の詳細:
ムハマド・アッジル、13歳、8年生は、Tekoah入植地に続く道路近くの村、ハルマラの外れにある家に住む。石が、道路を走る車輌に投げられた最近の事件に続き、兵士らは、村の近くの区画の家々を捜索した。2012年4月10日火曜日、午後4:00ごろ、兵士らは、アッジルの家のドアをノックした。ムハマドの母、マリアム・アッジルは、彼らを中に入れた。家を捜索した後、彼らは、彼女に、石を投げたので息子を逮捕していると告げた。母親は抗議し、肺水腫を被るムハマドは投石に加わらないと主張したが、兵士らは、ともかくもムハマドを連れて行った。
マリアム・アッジルは、息子と兵士らに続き、家を離れた。彼女は、彼らが外に出た後、兵士らが少年を殴ったと証言した:「わたしは、通りに止まる軍用ジープ4台を見た。兵士らは、ムハマドをつかみ、顔を下に地面に投げた。兵士3人が、彼の上に坐った。ひとりは彼の頭に、もうひとりは背中に、3人目が足に坐った。他の2、3の兵士らは、彼の身体の至る所を蹴り始めた。わたしは叫び、兵士らに語った:『わたしの息子は病気です、どうか、彼を打たないで』。わたしの真ん前で、兵士のひとりが彼の胸を打つのを、わたしは見た。わたしは、ムハマドに近づこうとし、兵士のひとりがわたしを押し返した」。
マリアム、ムハマド、そして事件を目撃した隣人の証言によれば、30分ほど後、兵士らは、ムハマドをジープに押し込んだ。彼らは、彼の手と足を拘束し、彼に目隠しし、近くのHerodian軍事基地に連れて行った。ムハマドは、兵士らが、基地で彼をジープから降ろしたとき、彼らは再び彼を殴ったと証言した。そして、朝までずっとひとり残された房に置かれたと、彼は語る。
午前のどこかで、ムハマドは、投石容疑で尋問された、キリヤトアルバ警察署に連れて行かれた。尋問が終って、ムハマドは、逮捕以来初めて医師により診察された、Gush Etzion旅団基地に連れて行かれた。ムハマドが、痛みと息切れを訴えた後、医師は、少年をエルサレムのハダッサ病院に連れて行くよう命じた。ムハマドは、兵士らに監視されながら、診察され治療されて、その同じ夜、Gush Etzion基地に連れ帰られた。
夜の間、Gush Etzion警察は、B'Tselemに証言したムハマドの父、ターレブ・アッジルに電話した:
「ムハマドの逮捕後のその日の夜、わたしは電話を受け、彼らは、Etzion警察署から電話しているとわたしに告げた。彼らは、息子のムハマドが彼らとおり、彼を取り戻すために1,000シェケル(2万円ほど)持って来なければならないと語った。わたしが、そのようなお金を持っていないと告げると、彼らは電話を切った。3時間後、彼らはまた電話してきて告げた:「800シェケル持って息子を受け取りに来い」。わたしはまた、そのようなお金を持っていないと告げ、彼らはまた電話を切った。30分後、彼らはまた電話してきて400シェケル持って来いと告げた。わたしは支払いに同意せず、次に彼らは、支払いなしで、Etzionから息子を引き取りに来るよう告げた。Etzionに到着して、わたしは、ムハマドが基地の門の傍の庭でわたしを待っているのを見いだした。彼は消耗しつくして見えた」。
彼の逮捕から1週間ほど後、ムハマド・アッジルは、2度目、逮捕された。ムハマドと彼の両親は、2度目の逮捕の正確な日付を覚えていない。ムハマドは、いつかの午後、彼が学校から帰宅し、軍用ジープ2台が通りをやって来て、家の側に止まったので、家の近くに立っていたと証言した。ムハマドの証言によれば、兵士らは、ジープの1台から出てきて、ムハマドを捕まえ、ジープに彼を押し込んだ。今回もまた、兵士らは、ムハマドに手錠をかけ、目隠しし、彼を近くのHerodian軍事基地に連れて行った。ムハマドは、数時間捕らえられた基地の房に入れられた。夜に、兵士らは、ムハマドを房から引き出し、彼に尋問することもなく、再びジープに押し込んだ。兵士らは、ムハマドを、彼の家から1キロほどのトゥク入口の交差点近くの地域に連れ去った。ムハマドは証言した:
「ぼくは、目隠しされていたし暗かったから、ジープがどこを走ったのか知らない。30分ほどして、ジープは止まった。兵士らは、ぼくの目隠しは解いたけれど、手は結ばれたままにした。彼らは、ジープからぼくを引き出し、走り去った。それはトゥクあたりの交差点だったと思う。とても暗かったから、その場所について、完全に確かでない。暗がりにひとりだったから、ぼくは本当に怖かった。ぼくの手は結ばれており、どこにいるのか判らなかった」。
ムハマドが、彼の知らないこの場所で、ジープから引き出されたころ、誰かが、Gush Etzion警察署から、ムハマドの母親に、息子がトゥク交差点に残され彼を連れに行くべきと知らせるため、電話した。その夜、仕事場に夜中留まっていたムハマドの父親は、タクシー運転手と連絡をとり、彼の息子を連れに行くよう依頼した。タクシー運転手は、トゥク交差点近くの道に沿って歩いているムハマドを見つけ、彼を家に連れて行った。
2012年4月30日月曜日の夜、ムハマド・アッジルは、その月3度目、逮捕された。兵士らは、彼の家から彼を奪い、ジープに押し込んだ。ムハマドは、彼が特定できないどこか軍事基地に連れて行かれた。兵士らは、目隠しされ手錠された彼を、数時間、屋外の庭に座らせた。その後、彼に質問することなく、兵士らは、再びムハマドをジープに押し込んだ。今回、兵士らは、手錠されたムハマドを、真夜中、トゥク村に残した。どこにいるのか、どのように家に帰ったものか判らなかったムハマドは、ある家のドアをノックし、住人を起こした。その家族の父親、ムハマド・アッサエルは、少年を中に入れた。アッサエルは、B'Tselemへの証言で、起こったことを説明した:
「誰かがドアをノックするのを聞いて、わたしは起きた。時計を見ると、午前2:30だった。わたしは驚き、それほど遅くにドアにいる誰も思いつかなかった。わたしは、それが誰か見に行き、ドアを開けて、13歳か14歳の少年を見た。彼の手は手枷されていた。わたしは、彼が誰か、何が望みか尋ねた。わたしは、彼がトゥクにいると説明した。彼は、兵士らが、ハルマラの自宅で彼を逮捕し、軍事基地の庭で数時間を座ってやり過ごし、兵士らが軍用車輌に彼を押し込み、手枷したまま彼をこの村に残したと告げた。
わたしは少年を中に入れ、彼に食物と水を与えた。わたしは、ストーブの上で包丁を暖め、彼の手首のプラスチック手枷を切るのに使った。わたしは、彼に名前を尋ね、両親の電話番号を尋ねて、ムハマドの家に電話し、彼の父親に、彼がわたしといること、起こったことを説明した。1時間ほど後、父親がムハマドを迎えにきた」。
2012年6月13日、B'Tselemは、憲兵隊調査部隊 (MPIU) と連絡をとり、これら事件の調査を開始することを要求した。これまでのところ、B'Tselemは、MPIUからいかなる返答も受け取っていない。
原文:B'Tselem
ありそうもないことだけれど、この子どもがユダヤ人で、ありそうもないことだけれど、子どもを拉致したのがハマースだったならば、世界のメディアはこぞって、この子どもへの虐待を書き連ねたことだろう。最初、NYTが、それを真似てニッポンのメディアも。しかしどうして、この虐待がイスラエルの手で行われたとなると書かないのだろう。同じことをハマースがやったなら書く価値があって、イスラエルがやったなら書く価値がないとすると、その基準は何か? まあ、イスラエルはこのようなことを、あるいはもっと残虐なことを、日々繰り返しているのだから珍しくもないけれど、このようなことをすることのないハマースがやったなら珍しい、と、いうことだろうか... イスラエルによる、とてもよく似たナビ・サレでのもうひとつの物語をアーカイヴで:
アーカイヴ:アナン・タミミ(04月08日)