2012年08月19日

シリア:パレスチナ人が戦いに引き込まれる

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Photo: Gabriela Keller/IRIN
シリアのヤルムーク・パレスチナ難民キャンプ


ベルリン、2012年08月14日 (IRIN) - 8月早く、シリア最大のパレスチナ・キャンプ、ヤルムークに迫撃砲が撃ち込まれ、少なくても20人を殺したとき、シリアのパレスチナ人の多くがそれを目覚ましコールと看做した。

「それはヤルムークが攻撃される3回目だったが、死傷者数はそれほど多くなかった」と、Moh Abu Eyadと名のったパレスチナ人活動家は語った。「問題は、ヤルムークがとても込み合っていること。弾丸一発を発砲するなら、3人に命中する」。

シリアの戦いが激しくなるとき、闘争の外に留まろうとするものはますます板挟みに立たされてくる。国の50万パレスチナ人の多くが、キャンプを暴力に巻き込まれないよう保つことはできないかもしれないと語る。

集団懲罰と看做される

シリアの首都、ダマスカスの、貧しく込み合うヤルムークは、パレスチナ人150,000人の家だ。それは、1ヵ月ほど前、反逆の自由シリア軍 (FSA) が首都に進軍して以来、そのすべてで激しい衝突を見た、タダモン、ヤルダ、ハジャル・アルアスワド、カダム地区の間に埋め込まれる。闘争がより接近し、追い立てられた何千家族もが、ヤルムークに避難して、戦いはキャンプにこぼれ始めた。

FSAの反逆者たちが、検問所で待ち伏せするためヤルムークに繰り返し潜入し、政権部隊が、先立つ迫撃砲攻撃の週に2回、パレスチナ病院を砲撃したと、ヤルムークの住民や活動家たちは語った。

殺されるパレスチナ人の数は劇的に上昇していると、ヤルムークでパレスチナ人権組織を運営するAmmar Hassan*は語った。「その半分は過去4週間で、250人のパレスチナ人が暴動の中で死んだ」と、彼は語った。「わたしは、迫撃砲攻撃が、『我々はいつだって君たちを攻撃できるのだから、君たちは静かにしなければならない』との政権からのメッセージだったと考える」。

政権と反逆者たちは、迫撃砲攻撃で互いを非難するが、パレスチナ人の多くが、それを、反逆同調者たちへの人道支援提供に対する政権による集団懲罰と看做している。地元活動家たちによれば、キャンプの学校や家庭に収容される難民の数は、20,000人に達し、近くの反逆拠点からの負傷したシリア人たちが、治療のためパレスチナ病院に運ばれてきた。

「わたしたちは、暴力を回避しようとするそれらにキャンプを解放した」と、1ヵ月前、アラブ湾岸国にヤルムークから逃れた活動家、Jafraは語った。「これは、当局を酷く怒らせた」。

中立に留まる努力

昨年のバッシャール・アルアサド政府に対する暴動の始まり以来、パレスチナ人は、満場一致から遠いスタンス - 中立に留まろうと努力してきた。「最も若い人びとは革命を支持する」と、活動家、Abu Eyadは語った、「しかし、政党を支配するより老いた世代は、殺されるか再び難民になるだろうから、わたしたちはどちらの側にもつくべきでないと語る」。

シリアのパレスチナ人たちは、1948年のイスラエル建国で、あるいは後の中東戦争で追放されたものの子孫だ。迫撃砲攻撃は、他のアラブ諸国よりシリアでより多くの市民権を持つそれらコミュニティの不確かな状況を際立たせた。例えば彼らは、政府の仕事に就き、財産を所有し、無料で国立大学に通うことができる。

暴力的衝突に連携する政府に対する抗議として、不偏は、維持するのがさらに困難になった。7月13日、政権部隊により抗議者10人が殺されて以来増加するヤルムークのデモンストレーションで、軍の暴力が、パレスチナ人の忠誠を反逆者たちの方にさらに押しやる兆しがあると、パレスチナ人活動家たちは語る。「その日以来、わたしたちは、脇に留まることがもはや選択肢でないと、とてもよく理解した」と、Hassanは語った。

「中立姿勢をとることで、パレスチナ人は安全を見いだしてこなかった」と、ベイルート・アメリカン大学の政治学教授、Hilal Khashanは語った。「代わりに彼らは、政権と、その反対派の激怒を引き出してきた」。

アサド政権が、パレスチナの権利の擁護者として自らを描いてきたので、問題はことさら微妙だ。

「アサドが、パレスチナ人の心と精神を失ったとする疑いは殆どない」と、米国に本拠地を置く民主主義防衛財団の政治評論家で、『ハマース対ファタハ:パレスチナの苦闘』の著者、Jonathan Schanzerは語った。パレスチナ人いくらかが、FSAに加わったとの報告があるが、彼らの数と動機は不明と、Schanzerは語った。

一方パレスチナ人は、政権と同様に反逆者からの増大する敵意に直面する。2月、イスラーム集団、ハマースは、暴動を支持してシリア政権との同盟を破棄した。6月後半、拷問の痕跡を帯びたハマースのスパイ、Kamal Ghanajaの遺体が、彼のダマスカスの家で見つかった。7月半ば、国軍のパレスチナ部隊、パレスチナ解放軍の徴集兵16人が、伝えられるところでは、アレッポ市近くで誘拐され殺された。どちらの事件の詳細も、闇に覆われたままだ。

政権の支援

パレスチナの党派すべてが、同盟を転じたわけでなかった。パレスチナ民衆の公式代表、パレスチナ解放機構は、ヤルムークに対する攻撃を非難したが、パレスチナの立場は、シリアに干渉しないことであると主張する。他の党派、ことさら、米国でテロリスト集団としてリストされるシリアで最大のパレスチナ組織、パレスチナ解放人民戦線-総司令部 (PFLP-GC) は、政権を支持する。

「PFLP-GCは、今通りをパトロールしているものたちに機関銃を配った」と、Hassanは語った。「彼らは、シリア治安部隊がデモンストレーションを抑圧するのを助ける。彼らは、襲撃を行ない人びとを逮捕して、後で彼らを諜報部門に渡す」。

政権の側につくことにより、PFLP-GCは、キャンプ内に緊張を増大させている。「ヤルムークの若者たちは、シリア人と並んで政権と戦いたいが、わたしたちの政治指導層は、立場をとることを拒絶する」と、ヤルムークの活動家、Jafraは語った。「彼らは、キャンプを護るためにそこにあると語るが、現実は、彼らが政権の命令を遂行していると、誰でも知っている。彼らは、わたしたちに対し、自身の党派を使用する」。

高められるパレスチナ関与のインパクトは、シリアのキャンプを越えて充分に達し得た。「多分、あるものは戦いに加わり、これに反してあるものは加わらず、パレスチナ人は分割されたままで、わたしたちは、彼らの多くが、国境に走るのを見るだろう」と、Schanzerは語った。

難民流出が、近隣のヨルダンとレバノンに、溢れ出る不安定を引き起こすかもしれないと、彼は主張した。レバノンのパレスチナ・キャンプは、知れわたるほどに不安定と看做され、ヨルダン人は、人口の80パーセントを占めるパレスチナ人に既に憤慨している。「ヨルダン人とレバノン人はいらいらしている」と、彼は語った。「当初、彼らの前途を心配するように見え、今、状況はますます複雑になっている」。

* 本名でない

原文:IRIN
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2012年08月13日

ウルード・サワルハがパレスチナ女性の先例の先駆けのため走る

PAUL WALDIE
LONDON − The Globe and Mail
2012年08月08日水曜日

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彼女は、指の爪それぞれに小さなパレスチナ旗をペインとして出てゆき、彼女の生涯最良の800メートルを走った。

パレスチナのウルード・サワルハは、オリンピックで、世界のベスト・ランナーたちに遅れずについていくことはできないと知っており、水曜日の予選の勝利者に21秒遅れて終った。しかし、彼女はふたつの目的でロンドンに来た;これまでより速く走ることと、パレスチナ女性の先例の先駆けとなること。彼女は両方を成し遂げた。

トラックで、彼女のベストタイム、2:40.12を破り、彼女は、2:29.16で走った。「わたしの目標は、わたし自身とパレスチナのため新記録を作ること、それができた」と、彼女は、予選後、通訳を介して語った。

先例の先駆けに関して:「わたしの両親がレース前、わたしに電話してきて『パレスチナ人すべてが見ており、あなたがいい結果を得るよう望んでいる』と言った」と彼女は語った。「わたしは将来、よくやることを望みます。このオリンピック大会はわたしの第一歩です」。

西岸、ナブルスの20歳の大学生は、長袖のブルーのシャツ、長いパンツ、白いヒジャブで走った。彼女は、オリンピックで、前に女性選手を派遣したことのないパレスチナのため競技する女性ふたりのうちのひとりだ。彼女は、彼女のヒジャブをパレスチナ旗でなにかしら飾ることを考えたが、代わりに爪に貼付けたと記者に語った。

国際オリンピック委員会 (IOC) は、パレスチナとイスラエルの和平合意に続き、1993年、パレスチナ・オリンピック委員会を承認した。3年後、アトランタで、パレスチナはオリンピックで初めて競技した。

トレーニングは、イスラエルにより課される旅行制限のため、前に練習する場所を見つける困難について話したサワルハにとり簡単ではない。パレスチナとイスラエルのオリンピック委員会は、今年、パレスチナ選手やコーチたちのための旅行手配がうまくいくよう、2度ほど会談した。これまでのところ、合意に至っていないが、サワルハは、彼女とパレスチナ選手仲間が、大会のためロンドンに到達するのに問題なかったと語った。

ロンドン・オリンピックは、パレスチナ・イスラエルの選手たちにことさら神経質だ。大会は、イスラエル選手11人が、ミュンヘン・オリンピックで、パレスチナの攻撃者たちにより殺された40年後にめぐってくる。IOCは、ロンドン大会で1分の黙祷で死を知らせるよう激しい圧力下にあったが、組織は拒絶した。

サワルハが水曜日の予選を終えた後の瞬間、800メートルのもうひとつのラウンドで、サラ・アッタルが、サウジアラビアのためトラックで競技する最初の女性となったとき、歴史はつくられていた。

サウジは、そのチームに女性を含めるよう、IOCからの圧力下にあり、結局、国はふたりを含めた;アッタルと、柔道選手、ウジュダン・アリ・セラジュ・アブドゥルラーヒム・シャフルハニ。サウジは、先週、シャフルハニ、16歳が、ヒジャブで競技することを要求して、論争を引き起こした。柔道連盟は最初拒絶し、そして次に和らいだ。シャフルハニは、改造版ヒジャブを着用し、2分もかからず彼女の唯一の一番に負けた。しかし、彼女が柔道マットを離れると、何百人もの記者に取り巻かれ、彼女はメディアのセンセーションとなった。

アッタル、19歳は、同じ注意を殆ど引きつけなかった。彼女は、長袖のシャツ、パンツ、ヒジャブで走り、予選は、2:44.95、最下位に終わった。レース後、僅か一握りの記者が彼女に会い、彼女は殆ど話さなかった。

「ここにいるというだけで信じられない経験です」と、彼女は立ち去る前に語った。アッタルは、サウジとアメリカの市民権両方を持ち、ロサンジェルスのペパーダイン大学の学生だ。

アッタルとサワルハどちらも、しばしば標準記録を満たしていない開発途上国の競技者たちに場所を解放するIOCの特別招待を通じて大会で競技した。

原文:The Globe and Mail

アーカイヴ:パレスチナ選手たちが本当にオリンピック選手に(07月30日)
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2012年08月10日

ミット・ロムニー、パレスチナ文化と白人至上主義:読む価値ある応答

アリ・アブニマ
2012年08月02日木曜日

米国共和党大統領指名候補、ミット・ロムニーは、イスラエル人とパレスチナ人の収入における大きな (20:1) 不均衡は、パレスチナ経済へのイスラエル占領の組織的劣化によるよりむしろ - 勝ったユダヤ・イスラエル文化と「神の手」で説明され得るとするエルサレムでの彼の主張で、反発を招いた。

パレスチナ文化の劣等を示唆するロムニーのコメントは、2012年の米国大統領選挙の有力者らにより着手される、パレスチナ人を標的とする人種差別攻撃の最新に過ぎず - そして、強硬路線の親-イスラエル有権者や寄付者らを喜ばそうと目論む。

3つの応答が際立つ。最初は - 奇跡的に - washingtonpost.comに出たサム・バフールの記事だ。バフールは、歴史的展望でのロムニーのパレスチナ文化中傷を述べる:

所与のパレスチナは、世界で最古の都市の祖国、物理学、化学、医学、数学、天文学といった、多くの「現代」科学の発展に向け著しい貢献と共に、人間性を提供した文明の揺籃だったアラブ文化の重要部分で、ひとは、ロムニーがこれらのどれにも価値を見出さないか - あるいは、それらを全く知らないと、当然考えていい。(略)

イスラエルと国際的両方の拘束からパレスチナ経済解放を進展しようと試みてきた、経験豊かな実業家として、バフールは、書くとき、経験から話す:

何年間も、新パレスチナ経済の出現を、イスラエルが禁じてきたばかりでなく - それは、そのような生産経済の芽さえ日の目を見ないよう、構造的に組織的に、確実にしてきた。(略)


「白人至上」文化

Black Agenda Reportに書いて、グレン・フォードは、「パレスチナで2つの文化が衝突し、1つが他方より20倍生産的と分かった」とのロムニーの論争を嗤う。

立場を逆にして、ロムニーの空論から溢れ出る白人至上の「文化」が、有色民族の征服を正当化するために、合衆国とアフリカでいかに利用されてきたかフォードは指摘する:

(略:先を急いで)


事実を理解する

ロムニーの無知なコメントの機会を捉え、中東理解研究所 (IMEU) は、優れたファクトシート『パレスチナ文化:イスラエル襲撃下の64年』を纏めた。

それはイスラエルによる、パレスチナの町、都市、村々の破壊、天然資源・経済資源の窃盗と破壊、教育へのアクセスの否定、農業の破壊、パレスチナ経済開発の包囲と封鎖の記録の優れた、十分に立証された要約である。

わたしたちが、パレスチナに関する、故意の歪曲と中傷に応答する場合の、わたしたちすべてにとり有用な資産。

全文:The Electronic Intifada

アーカイヴ:ホワイトハウスがロムニーにエルサレムを「イスラエル首都」とした叙述の説明求める(08月08日)
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2012年08月07日

「ぼくが盲目と母に告げないで」:ムハマド・ブラシがイスラエル刑務所の暗黒の中で光をつかもうとする

Shahd Abusalama
2012年07月28日土曜日

パレスチナ抵抗によりその戦車から捕捉され、5年間、捕らえられたイスラエル兵、ギラード・シャーリトは、「テロリスト」パレスチナの「被害者」として世界的に知られる。

しかし、世界が、わたしたちパレスチナ政治囚のことをいかに殆ど知らないか見るにつけ、わたしを激怒させる。(シャーリトの場合と違って)ひとりだけではない。イスラエル刑務所で15年を過ごしたわたしの父さんが、彼の拘留について頻繁に評したように、むしろ「生者の墓場」といったイスラエルの鉄格子の向こうに、5000人ほどのパレスチナ人がいる。

昨夜、政治囚に関する最新ニュースをたどっていて、わたしは、「拘留者ムハマド・ブラシの健康状態が悪化している」と読める表題に遭遇した。わたしが、以前その名を読んだことがないことは殆ど確かだ。

イスラエルの刑務所に閉じ込められたパレスチナ・ヒーローすべてのように、ムハマド・ブラシは、どんな心も動かす彼自身の物語、人間的で英雄的な物語を持つ。わたしは、偶然に - そして涙ながらに - 彼の手紙、「ぼくが見えなくなったと母に告げないで」を読むまで、彼を知らなかった。

わたしは、32歳のムハマド・ブラシを詳しく紹介したい。しかし、わたしはまず、彼自身の詩的ことばに、彼が誰か語らせたい。彼の手紙のわたしの翻訳をここに:

ぼくがもはや見ることができないと、母に告げないで。彼女はぼくを見ることができ、ぼくは見ることができない。暗闇がぼくを満たすまで、ぼくの眼に広がった病気の後、ぼくが見えなくなったと彼女は知らないので、彼女が、ぼくの兄弟姉妹、友人、隣人たちの写真を見せるとき、ぼくは笑顔を装う。

角膜移植手術を受けるためぼくが何年も待ったと、彼女に告げないで。しかし、イスラエル刑務所業務は、ぼくをとり残すすべての理由をぼくの両眼に与え、引き延ばし、そして引き延ばした。

ぼくが見ることができた幸福な日々の、ぼくが思い出す最後のものが、ぼくに向かって走りながらパレスチナ旗を振って、「殉難者、殉難者」と叫んでいた小さな子どもと、彼女に告げないで。

ぼくに命中した爆弾の榴散弾破片がまだ、ぼくの身体に鎮座していて、ぼくの左脚が切断され、プラスチックのに替えられたと、ぼくの母に告げないで。もう一方の脚が腐敗し、血液と生命を干上がらせると彼女に告げないで。

囚人が生命なき生存を生き残り、人間以下のものとして扱われると、ぼくの母に告げないで。彼は、灰と鉄、邪悪と絶望のみとの遭遇を判決される。


(略:長いのでところどころ)

ぼくが夜不眠をかこち、ぼくの身体を麻酔する間、ぼくが鎮痛剤の慈悲の下で生きると彼女に告げないで。ぼくが、ぼくのもをなくし続け、鉄のベッドにのろのろ進み、あるいは、ぼくの近くで眠る別の囚人に、トイレに行くのを手伝ってくれるよう起こすと、彼女に告げないで。不眠が常にぼくを苛み、眠りは決してぼくを訪れないと、彼女に告げないで。

イスラエル、21世紀の国家が、その刑務所を疾病を植え付ける場所、肉体がゆっくり破滅する場所に変えてきたと、彼女に告げないで。


(略:長いので)


ムハマドについて知る

この手紙が、ムハマド・ブラシの人格とのわたしの精神的関係を開始した。彼は、わたしの人生のインスピレーションの新たな源泉となり、パレスチナ政治囚問題でのわたしの信頼を深めた。

ムハマドは、不服従キャンペーン、2011年9月末に開始された22日間大規模ハンガーストライキの間、彼の感動の手紙を、エシェル刑務所からこっそり持ち出し得た。彼や彼の仲間に対するイスラエル刑務所業務の非人道的慣例に光を放つ試みで、彼は、医療怠慢の自身の経験を共有した。彼らが大規模ハンガーストライキを始めるときはいつも、医療の質は、常にわたしたちの拘留者の要求リストの頂点にある。

(以下、かいつまんで)
ムハマドをもっと知りたくて、彼の家族を訪ね、物語を聞きたいと願ったが、イスラエルのアパルトヘイトが、ガザの誰かが西岸の誰かと会うのを不可能とする。

ムハンマドの弟からのメッセージ

(ここもかいつまんで)
検索してわたしは「拘留者、ムハマドとラムズィ・ブラシ」というFacebookページをみつけ、ムハマドの手紙にどれほど感動したか掲示を残した。すぐにわたしは、彼の22歳の弟、ハムザ・ブラシからメッセージを受け取った。

ムハマドの家族は元来、1948年に民族的に浄化されたアブショーシャ村出身だ。彼の祖父母は、彼らがまだ住んでいる、ラマッラのアルアマリ難民キャンプに逃れた。

イスラエル兵士らにより弟が殺され、ムハマドは爆弾で負傷

第二次インティファーダの始まりで - 2000年9月開始 - イスラエル占領軍は、アルアマリに侵攻し、人びとを虐殺し、その家屋を破壊した。武装兵士が、ムハマドの15歳の弟、スブリを、彼が石を投げているとき彼の命を切り詰め、撃った。これが、ムハマドを抵抗に加わり、民衆の尊厳と安全の意識を防衛するよう動かした。

同時に、ムハマドは警官として働いた。2001年、彼は、イスラエル検問所から50メートルのパレスチナ警察署を警備する夜勤だった。帰宅するため彼が車に乗り込むと、爆発した。その後、彼は、爆弾が車の中にあったと知った。誰がそれをしたのか疑いがあったが、彼の兄弟は「ぼくたちの敵は唯一:イスラエル! 物語の残りが、この犯罪に対する責任の彼らの否認が嘘と証明するだろう」と答えた。

「ムハマドは、爆発からかなり遠くに見つかった」と、ハムザは電話でわたしに語った。「人びとは、彼らが殉難者を見つけたと思った。しかしありがたいことに、爆弾は彼を殺さなかった。それは彼を盲目にし1本脚にしただけだった」。

ムハマドは政府の病院に運ばれた。しかし、彼が半死半生であってさえ、彼は再び攻撃された。「覆面の男が、彼の病室に入り、その指をムハマドの、爆弾で既に見えない眼に突き刺した」と、ハムザは怒りで語った。「その後、彼は民間病院に送られ、警備なしにひとり残されることはなかった」。

2003年の逮捕

「しかし彼は、どうして刑務所に入ることに?」と、わたしは尋ねた。

「2003年2月17日に、イスラエル軍は、拘留キャンペーンの準備でアルアマリを包囲した」と、ハムザは答えた。「ぼくたちは、ムハマドが標的になるとは思いもしなかった。彼の障害で、どうして彼が、イスラエルの安全を脅かし得るのか?」

「イスラエル兵士の巨大な部隊が、ぼくたちの家を襲撃した」と、彼は語った。「彼らは、立っていようとして壁に寄りかるムハマドを見つけた。彼らは、彼を攻撃し、まるで彼が見え、逃げることができるかのごとく、彼に手枷し目隠しし始めた。兵士らは、彼の障害のため、彼を苦しめ始めまた」。ハムザは、兵士の指揮官が「我々はお前が死ぬことを欲したが、生きてると聞いて、我々はお前が我々の客人となるべきと考えた」と、ムハマドに告げるのを聞いたと、わたしに語った。

(略:長いのでところどころ)

最初、イスラエルの裁判所は、ムハマドに、7終身刑を判決した。しかしその後、彼の健康状態に照らし、3終身刑プラス35年に減刑された。「まるでこの無慈悲な法廷が、違うことをなしたかのように!」と、ハムザは怒って語った。「終身刑1回で、イスラエルの刑務所を彼の墓にするのに十分だ」。

ムハマドは、彼の判決のうち10年間を服してきて、彼がいつか解放されるか誰も知らない。逮捕以来毎日、彼は、医療無視に苦しんできた。それは、ムハマドを暗黒のふたつの形態:色のない黒しか見ない彼の見えない眼と、彼の人生の最後の日を過ごすだろう、彼が日々死にいく暗い房、に取り残す。

50人を超える囚人が、肉体的に、あるいは精神的に、障害者だ。投獄を思い返して父さんが語ったように「イスラエル刑務所業務の無慈悲な獄吏により拘留されることは、精神的健康を脅かすのに十分だ」。

良心のいかなる断片かを伴ういかなる心情における適否のいかなる感覚をも犯すイスラエルの恥ずべき犯罪の殆どは、セキュリティの名のもとに犯された。しかしいかにして彼らは、彼らの安全を殆ど危険にさらすことができないムハマドの事例を正当化できるのか?

全文:The Electronic Intifada
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2012年08月05日

ヘブロンでのイスラエル政策の究極の目的:民族浄化

マーカス・フィッツジェラルド
2012年07月28日|国際連帯運動


アルハリール(ヘブロン)東郊外に位置する、違法なキリヤトアルバ入植地のすぐ下方が、パレスチナ人地区、アッラスである。

イスラエル人入植地、キリヤトアルバのオンラインでの急ぎ検索が、つくられた歴史や、1981年以来、それがどのようにパレスチナ人の抵抗を受けたか、一般知識を提供するが、比較的大きな(ca. 7000人居住)入植地近くに住む元来のパレスチナ人にとっての必然的結果を読者に知らせない。あるいはそのような植民地が、国際司法法廷により確認されたように、国際法により違法と看做されていると書かれたものも見出せないだろう。あるいはまた、同地域のイスラエル人入植者によって、パレスチナ人に対して犯された1994年のイブラヒミ・モスク大虐殺も。

ヘブロン住民たちは、入植者らによる絶え間ない暴力的攻撃、イスラエル政策による土地収用、移動の自由の欠如と車を使用するための特別許可の必要条件、水道水の欠如、そして破壊について、定期的に、国際連帯運動と話す。

破壊

2006年、パレスチナ人地主、ファイーズ・アラジャルは、1ダースの店舗と何家族かの収容を目指す大きな建物の工事を始めた。建物は、恐ろしくも、アッラス地区のオリーヴ林と、遠くに興奮がちらちら燃えるアルハリールの白い家々を見下ろす場所だった。

計画が殆ど完成した2007年、イスラエル人入植者らが建物を占拠した。彼らを追い立てる高等裁判所決定に続き、西岸中から入植者らが、建物の違法強奪を防御する準備が整ったその家に集まった。追い立て最終期限が、高等裁判所により、2007年12月4日に設定された。

その最終期限に繋がる週は緊張していた。イスラエル人入植者らは、パレスチナ墓地を破壊し、パレスチナ人の車(複数)を燃やし、パレスチナ人の家々を攻撃した。そのような攻撃の拡大が、不法占拠者らを支持する違法入植者何千人もの到着の結果に帰着した。彼らは、追い立て部隊との戦いに成功した。イスラエル政府当局は、単に彼らを排除するさらなる試みを控え、以前に見られたように、資産窃盗が(入植者らの)セキュリティ問題にこじつけるストーリを許した。近年、イスラエルは、入植者ら「保護」のため、パレスチナ人歩行者用の軍事検問所設置さえ決定した。

ムハメド・アルジャバリ、「アブ・ナーイム」と彼の家族は、占拠された建物から100メートルほどの家に住む。今年5月28日、彼らは、家の屋上にもう1階建築し始めた。15人家族は、もっとスペースを必要とした。

近くの最近占拠された家の入植者らが、アブ・ナーイムにより進行中の建築計画を繰り返し攻撃した。続いて、アブ・ナーイムは、イスラエル当局により、工事続行を禁止された。

オスロ合意(添付 1、12条)参照で、パレスチナ人は、セキュリティ道から50メートル以内での建設を許されていない。アブ・ナーイムの事例では、その地区に新軍事検問所建設で、セキュリティ道が発表された。アブ・ナーイムの工事許可の法的評価は、彼の家が 50メートル建設不許可地帯から離れていたけれども覆された。14年前に建てられた家がある土地は、1967年のイスラエル占領以前から、アルジャバリ家が所有してきた。

今のところ、建設途中の上階は、窓や扉のない空の外観として残される。イスラエルのブルドーザが、アブ・ナーイムが工事を継続するなら全家屋を破壊しようと待機している。

資源の妨害と併合

オリーヴ林を越えた、キリヤトアルバの有刺鉄線フェンスの傍に、カイード・ダナと彼の兄弟たちが住む。彼らの家の外すぐに立ちはだかるイスラエル監視塔によってのみ途絶する、もうひとつの唖然とする光景が取巻く。被占領西岸の殆どは、これら灰色の塔でしみづけられる。その窓からの監視が、常にある占領、パレスチナ人に、仮にあるとしても殆ど享受できないプライバシーは贅沢と思い起こさせる。

ダナ家は、過去50年間同じ土地に住んできた。1958年(?- ママ)、イスラエル当局が、彼らに、その家を離れ、増大する違法入植地に場所を空けるため、しつこく金銭を申し出た。家族は拒絶し、それにも拘らず、イスラエル軍は、彼らの庭の半分をブルドーザで均した。

6月24日時点で、ダナ家は水がなかった。イスラエル当局が、彼らの水タンクを補充するため地区に入る給水車を妨げた。その結果、カイードと彼の家族は、家の外の非衛生的な井戸から水を汲むよう格下げされる。これは、彼らが次の問題に出くわすところだ:水は毎日、2時間のみ利用可能だ。これは、彼らの駱駝4頭(100リットル/日)と最も基本的家庭のニーズを供給するのに十分でない。

ダナ家の家の北、オリーヴ林を過ぎて、アブドゥル・ハイ一家(アブ・ホスニ)が住む。彼らの窓は、イスラエル入植者らが、投げる石でガラスを砕くのを避けるため、囲いをめぐらされる。12月4日、家族は、ダムダム弾(拡散弾)の負傷3人を残す危険な攻撃を受けた。ダムダム弾は、身体に入る実弾の一種で、拡散し、恒久的負傷あるいは死を引き起こす。またダムダム弾は、イスラエル入植者らにより使用されると知られているが、それらは国際法により違法である。

その地区に住むジャマル・アブサイファンは、彼のカメラで事件を捉え、軽傷のイスラエル入植者が、彼の負傷から15分後、いかにヘリコプターで飛び去ったか、反して、砲撃により負傷した、ひとりは重態のパレスチナ人3人は、救急車を3時間待ったと説明する。

彼らに到達しようと試みる救急車は、イスラエル軍により止められ、その地区への入域を拒まれた。

究極の目的:民族浄化

あいにく、入植者の攻撃はまれでなく、1968年にキリヤトアルバが樹立されて以来、起こってきた。それら暴力的攻撃と、彼ら(入植者ら)に伴う軍による暴力と政策の目的は、人びとを負傷させ、彼らの土地を破壊することのみでない。それは究極の目的:パレスチナの民族浄化に到達するための戦略的手段に過ぎない。

キリヤトアルバによる次の段階は、重要なパレスチナのオリーヴ林のその真ん中を下って分割する、新道建設だ。道路は、(道路の)反対側の彼らの樹木を世話することからパレスチナ人を妨げるのみでなく、更なる土地を併合し、経済的必要性を取り上げ、生来のパレスチナ人たちにとり生活をさらに困難にして、パレスチナ人にアクセス不能とするだろう。

生活を困難にする状況の堆積にも拘らず、その地区の家族は誰も、イスラエル占領下、彼らの日常生活の不確実性と圧力にも拘らず、彼らの土地に留まる選択をしてきた。

原文と画像:International Solidarity Movement
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2012年07月20日

残忍な謀殺への軽い刑がユダヤ人とパレスチナ人の二重基準を示す

Ira Glunts
2012年07月15日

「A」とのみ特定されるエルサレムのティーンエイジャは、残忍で、明らかに挑発されずに遂行した攻撃に続く、パレスチナ人、フッサム・ラウィディ刺殺のための有罪答弁取引後、当惑させられる短い8年の刑を言い渡された。告訴は、「謀殺」から裁判所が慈悲深い刑を課すことを容易にする「殺人(故殺/殺意なき殺人)」に縮小された。犯罪は、2011年2月11日に起こった。ラウィディは、殺されたとき24歳だった。

その事件は、エルサレムの中心で、金曜日の夜に起こった。エルサレム、ベイトエル、イタマルの居住者、被告とその友人3人は、ラウィディが彼の友人、ムラード・ジェラニとアラビア語で話すのを聞いた。被告の友人ひとりが、ふたりに向け、人種差別的発言を言葉にし始めた。

判決で、裁判所は、その時被告が、彼の友人によりなされた人種差別的発言に気づいていなかったと述べた。しかしながら、彼は、彼の友人がふたりを殴るのを見て、けんかに参加した。

Zvi Segal裁判官は、「ある時点で、若者が床屋のカミソリ刀を引き抜き、耳からほおまで顔に深い切り傷をもたらし、故人を攻撃した」と述べた。それはまた、ラウィディが出血して死につつあるなか、友人のふたりがラウィディを殴り始めたと述べる。

「A」の友人2人が、犯罪の証拠隠滅を試みに突き刺した現場に戻ったとき、警察により逮捕された。(ヘブライ語報道のみ)

深刻な負傷をもたらし有罪判決を下された被告の友人2人は、取り引きの一部が検察当局と達し、6ヵ月の地域奉仕が宣告された。(わたしの重要視、IG)

これら2人が、犯罪を隠蔽しようと企てた若者らであったのか、あるいは「A」の第3の友人の配列だったのか、報道からは明確でない。加害者らの氏名は報道に現われなかったが、被害者どちらの氏名も与えられた。

刑期に加え、被告は、被害者家族に、総額5000シェケル(およそ1200米ドル)の支払いを命じられた。この総額は、Ha'aretzにより「非常に少ない」と説明された。(ヘブライ語報道のみ)

被害者の父親、フサイン・ラウィディは、新聞に「彼がなしたことに対し、彼が8年服役することに、何も相当しない… それらは裁判所で、わたしには何もできない。彼は、アラブ人というだけでわたしの息子を殺害した」と語った。(ヘブライ語のみ)

ピース・ナウ主事、Yariv Oppenheimerは、「もし加害者がアラブ人で、被害者がユダヤ人だったなら、刑は終身になっていただろう。イスラエルの裁判所でのみ、アラブ人の生命は、高々5000シェケル(98,000円ほど)の価値しかない。検察当局は、宣告を上訴しなければならない」と語った。(ヘブライ語のみ)

再びヘブライ語版のみで、新聞はこの有益な比較を提供する。

同様の事件で、判決は、はるかに厳しかった。2009年、Eric Karpは、アラブ人の若者らにテルアヴィヴ海岸で殺害された。これら攻撃者らもまた、故殺(謀殺と対照的に、IG)の有罪判決を下されたが、彼らは26年の刑期が宣告され、総額で300,000シェケル(590万円ほど)、家族に賠償することを強いられた。


出所

Hasson, Nir, “Jewish teen sentenced to 8 years in jail for killing Arab in Jerusalem,” July 12, 2012 (English)

Hasson, Nir, “5000 shekel compensation to the family of an Arab who was stabbed to death by a Jew,” July 12, 2012 (Hebrew)

原文:Mondoweiss

アーカイヴ:受難者となったフッサム・ルウェイディの最後の瞬間(2011年02月24日)
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2012年07月16日

パレスチナ強奪を描くNY広告が「ユダヤ人社会」により反-セム(ユダヤ)と呼ばれる

Philip Weiss
2012年07月12日

palestinian-loss-of-land.jpg
地図

長いことパレスチナ連帯イヴェントでハガキで配布された上のグラフィックは、才気ある作品だ;それは、他のどんな迅速な概要よりもっとよくイスラエルとパレスチナの歴史を説明する。アンドリュー・サリヴァンは、昨年それを発表した。わたしの妻はかつてハガキを見、すぐにディナ・パーティでそれに言及した。「地図を見た? ところでわたし持ってるの!」

今や、このグラフィックは、成功をおさめた。それは、ニューヨーク郊外のエリートに向けた電車のホームの広告の一部だ。ここに、Hudson ValleyのJournal NewsのBob Ryserによる報告がある。(リンクの写真が、グラフィックがより大きな広告の中でどのように使われているかを示す)。「ユダヤ人社会」のシオニズムとの合成と、広告スポンサー、ヘンリー・クリフォードが「殆ど支持者がいない」との主張に注意。

「人びとがユダヤ人を考える場合、彼らがユダヤ国家を考えるので、これは反-セム(ユダヤ)だ」と、マンハッタン拠点のユダヤ新聞、Algemeinerの編集主幹、Dovid Efuneは語った。「ユダヤ人は、これが非常に何度も起こるのを見た。それは常に、ユダヤ人が犯罪を犯していると述べるメッセージで始まる」。

4枚の地図に縮むパレスチナ領土の連続を示し、470万人パレスチナ人が国連により難民として分類されると述べる表題を含む広告は、コネティカットに住む84歳の元ウォール街資本家により支払われた。

「事実が扇動的なら、それらは扇動的だ」と、イスラエル/パレスチナ平和委員会と呼ばれる会員10人の集団の議長、ヘンリー・クリフォードは語った。「中東すべてが、アラブ-イスラエル闘争のウィルスに感染する。人びとは、問題の真実を知る必要がある」...

「我々が知る限り、これは、ことさらそれらが、複雑な闘争の曲解されゆがめられた視点を示すので、補足的放送時間の価値のない、殆ど支持者のいない個人の仕事だ」と、改革会衆、ウェストチェスター北部、Temple Beth Elの上級ラビ、Joshua Davidsonラビが語った。「イスラエルを愛し、中東和平を切望する我々すべてにとって明らかに、正直にその完全な文脈の中で、歴史を物語り闘争を描くことが我々に職務としてかかっている」...

「メッセージは、簡潔に人びとに届けられなければならない」と、コネティカットで同様の広告キャンペーンを実施したクリフォードは語った。

ユダヤ人社会の指導者らは、さらに反対することができなかった。

全文:Mondoweiss


 この地図を、わたしもしばしば使う。今年3月30日、パレスチナ土地の日を記念して、東京で開催した「読書会」でもこの地図を示すと、パレスチナ問題と関わったことがなかったと語った参加者のひとりが、「この地図は問題を一瞬で理解させる、よく判ります」と語った。しばらく放り出したままのわたしのもうひとつのブログ、『オリーヴの庭から』にも、この地図を常時貼付けている。これが「殆ど支持者のいない個人の仕事だ」としよう。しかし、この地図を「傑作」と考える「個人」は少なくない。封鎖のガザに何百台も連なるヨーロッパからの輸送コンヴォイの車輌にも、決まってこの地図がプリントされていた。少なくてもシオニストの数と比べるべくもないほど多いと断言できる。この地図が雄弁であるばかりに、シオニストにとっては看過できないのだろう。
 ちなみに、掲載の地図は、原文からのものでなく(色が幾分違う)、以前掲載したものを使用した(99MBにつき容量を倹約して)。
posted by mizya at 11:56| Comment(0) | TrackBack(0) | article | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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