2012年05月21日

戯れと「士気」のための殺人:眠るパレスチナ囚人への死に至るイスラエルの攻撃の衝撃ヴィデオ

アリ・アブニマ
2012年05月17日木曜日


HonaAlexandria

カメラは、刑務所寝室を襲撃し、囚人にベッドから出るよう怒鳴り、彼らが命令に従わないなら撃たれるだろう、重武装イスラエル公安隊員を追う。

囚人たちは、奇襲攻撃の恐怖の中で、絶叫が聞こえる。それは、イスラエルの参加者らが「すてき」で「満足」だった夜と言っただろう、残忍で死に至る暴力の夜だった。

イスラエルの攻撃者のひとりが、閃光、炎、煙の中で叫ぶ:「俺はこれらゲートを開き、これら売春婦の餓鬼どもをぶっ殺したい」。他のイスラエル人らが、母親について囚人たちを侮辱する野卑なアラビア語を叫ぶ。

囚人たちは、苦悩と恐れにもだえる。イスラエル人が銃を向け、「腹這いになれ!」と叫び、床に横たわるのを - アブ・グレイブをしのばせる映像に - 見ることができる。

他が、明白な理由もなく、撃たれる。

これらは、イスラエルのチャンネル 2TV局の調査番組、Ouvdaで、2011年4月に放映されたヴィデオの場面だ。2007年10月22日のパレスチナ人囚人たちに対する記録する暴力的攻撃は現実だったが、それはKetziot刑務所で、「士気」と「やる気」を煽るために、イスラエル公安隊員の「訓練演習」として遂行された。

ひとりのパレスチナ人、ムハマド・アシュカルが殺された。イスラエルが最近、彼の家族への補償支払いに合意したものの、彼の死に関して、誰ひとり告発されなかった。

ある「全システム」とOuvdaが述べたこのヴィデオは、3年以上もの間、非公開に保つことが試みられてきた。

イスラエル刑務所業務の副司令官は、このぞっとさせる凶悪な暴力で、彼の部下らの出来映えを「10点」と評価したのだった。

この衝撃的ヴィデオとそのまわりの出来事は、その2,000人以上が、最近、彼らが受ける残忍で非人道的な扱いに対する28日間のハンガーストライキを成し遂げた、イスラエル刑務所に捕らえられるパレスチナ人囚人何千人もの生命へのまれな一瞥を提供する。

(略:長い、ここまでで1/5ほど。これ以後はヘブライ語のヴィデオ映像の進行を英語で説明している)

全文:The Electronic Intifada
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2012年01月22日

2009年1月18日:アブルジャイラ家

2012年01月18日
PCHR(パレスチナ人権センター)

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オリーヴの苗木の傍らに立つアブデルアズィミとマズーザ・アブルジャイラ (Image from pchrgaza.org)

(以下は、「キャストレード作戦」から3周年を記す23の語りシリーズのうちの語り22である。新たな掲示が、事件が発生した3年前の日付と同じ、各々の日に公表されるだろう。語りは、パレスチナ人権センターにより促進されている。)

「そこに到着してわたしは、彼らの土地で作業するその地区の多くの人びとを見つけた。それは静かで、それだからわたしは、心地よく感じ、そこに留まった。突然、ジープの1台が境界で止まり、弾丸につぐ弾丸が発砲された。

2009年1月18日、10:00ごろ、イスラエルとガザ回廊間の境界に配置されたイスラエル軍が、ハーンユーニスの東、フザア村の東の彼らの土地で作業する農夫たちに向け、無差別に弾丸を発砲した。農夫のひとり、マヘル・アブデルアズィミ・アブルジャイラ (23) は、弾丸の1発が、彼の左腕と胸を貫き、殺された。

「マヘルは、畑でわたしの近くにいた。彼が『アッラー・アクバル』と叫ぶのを聞いたとき、彼はわたしの後にいて、わたしは、弾丸の1発が彼に命中したのを見いだした。人びとは悲鳴を上げ、地面に打ち倒れた」と、彼の父親、アブデルアズィミ・アブルジャイラ (59) は思い浮かべる。マヘルは、激しい砲撃下、馬車に運ばれ、次に車に移された。彼は、病院に到着して、死が宣告された。

「1月17日、イスラエルは停戦を宣言した」と、アブデルアズィミは思い浮かべる。「1月18日、多くの人びとが、そこの彼らの土地と家を調べるため、フザアの東に戻った。マヘルと(彼の兄)ユーセフは、土地に行き、彼らが心配だったのでわたしは彼らを追った。そこに到着すると、わたしは、その土地で作業するその地区の多くの人びとを見いだした。静かだったので、わたしは心地よく感じ、そこに留まった。突然、ジープの1台が境界で止まり、弾丸につぐ弾丸が発砲された」。ユーセフ (29) が、彼の弟の殺害後、PCHRに与えた目撃陳述によれば、マヘルと境界の間の距離は800メートルほどだった。彼は、その地区が静かで、電気技師たちもまた、その地区で作業していたと語った。

(略)

彼らの息子、兄弟の喪失を被ってなお、アブルジャイラはまた、彼らの農地の破壊と、到達不能の結果、経済的に苦闘する。兄弟たちと共に、アブデルアズィミは、イスラエルとの境界に近い、ハーンユーニスの東に4ヶ所の土地を所有する。

「わたしたちの土地は、オリーヴとオレンジの樹木が栽培され、わたしたちはその果実を売ったものだった。しかし、第二次インティファーダ開始以来、軍は、繰り返し何度もブルドーザで押し潰した。攻撃の前、わたしたちは日常的に土地に行き、夜遅くまで留まり、そこでバーベキューしたものだった。人びとはまだ、その地域に住んだものだった。わたしたちもまた、そこに建物を持っていたが、攻撃中、それらはすべて、作物と共に破壊された」と、アブデルアズィミは語る。

アブデルアズィミは、彼の土地の耕作継続を試みるとき、彼の息子を殺したのと同じ暴力に直面する。「昨年10月に、オリーヴの苗木を植林しようとしたとき、彼らはわたしを撃ち始め、わたしは離れなければならなかった。苗木は今、我が家の隣にある。4区画の2ヵ所に、わたしたちはもはや全く到達することができない。彼らがブルドーザで潰して以来、わたしたちはもはらそれらに到達できなかった。わたしたちがアクセスしようとすると、彼らはわたしたちに発砲する。それら畑は、50年もののオリーヴ樹が栽培されていたのに」。

(略)

全文:Jadaliyya

アーカイヴ:2009年1月16日:シュッラブ家(01月20日)
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2012年01月20日

2009年1月16日:シュッラブ家

2012年01月16日
パレスチナ人権センター

「わたしは、息子を取り戻しに裁判所に行くことができるだろうか? ノーだ」モハメドは語る。「彼らに続くますます多くが実際いるときに、息子を殺した兵士らを、正義に連れ出す論旨は何か? 他のひとたちが、同様にその息子を失うだろうとき? 彼らが免責されると知っているから、兵士らはこれら犯罪を犯す」。

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モハメド・シュッラブ (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月16日、イスラエル部隊は、ハーンユーニスの南東、アルフクハリ地区に陣を構え、イスラエルが期限付き停戦を宣言したので家に戻ろうとしていたとき、モハメド・シュッラブとその息子ふたり、カッサブ、28歳とイブラヒーム、18歳の車輌に発砲した。モハメドは負傷し、車輌は破壊され、車を離れたとき、彼の息子ふたりは続けて撃たれた。イスラエル兵士らは、救急隊のその地区へのアクセスを拒絶し、カッサブとイブラヒームは、長時間放りだされた現場で出血死した。当時、その地区に軍事作戦はなかった。

モハメド・シュッラブ (67) にとり、息子たちの死以後の生活は、その日の記憶を食い止める、直の闘いだった。「わたしは、常に忙しくしておこうとする。わたしは毎日、4-5時間読書する。あなたが見る壁のこれらの本すべてを、2-3回読んだ。残りの時間、わたしは農場で働き、作物を手入れし、家畜を世話する」と、モハメドは語り、2時間前に生まれたばかりの羊2頭を指差した。彼自身の気を紛らす最善の努力にも拘らず、しかしながら、モハメドは、思い出す生活に身を任せているように見える。「土の下に埋められるまで、わたしは、息子たちの苦しみを苦しみ続けるだろう」。

(略)

全文:International Solidarity Movement

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2012年01月19日

2009年1月15日:アンナディーム家

2012年01月15日
パレスチナ人権センター

「ナセルは、子どもの勉強、ことさら英語と数学を手伝ったものだった。今、それはわたしの義務。夫を失ったわたしに賠償し得るものは何もない。彼は常にとても優しく、理解深く静かだった」。

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マジュダ・アンナディームと彼女の息子、モハンナド、フィラス、バシャール (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月15日、7:00少し過ぎ、イスラエル軍は、ガザ市のタルアルハワ地区の家から逃げていた、ナセル・アンナディームと彼の息子ふたり、バシャール (17) とフィラス (15) に、戦車砲と実弾を発砲した。少年ふたりが中程度の負傷を被った一方、父親は重傷を負った。エジプトとガザでの9か月の集中治療の後、ナセル・アンナディームは、結局負傷により死んだ。彼は44歳だった。ナセルの妻、マジュダ・アンナディーム (45) は今、息子3人、モハンナド (19)、バシャール (17)、フィラス (15)、そして娘ふたり、ディマ (14)、ターラ (9) のひとり親だ。

「わたしを歩ませ続けるものは、子どもたち、わたしの子どもたちのみだ。わたしは、ダマスカス出身で、そこで学んでいた彼らの父親に会った。わたしたちは、1990年に結婚し、彼とガザに来た。わたしは、ダマスカスに戻ろうと、行って家族と住もうと常に考えるが、わたしは、ここガザにいるほうが子どもたちにとってよいと知っている。これは彼らの家。わたしは、彼らを護る何であれするつもり」と、彼女は息子たちに微笑んで言う。

世帯の責任すべてが、子どもたちの世話と経済に関する両方が、今マジュダの肩にある。「ナセルは、子どもたちの勉強、ことさら英語と数学を手伝ったものだった。今、それはわたしの義務。夫を失ったわたしに賠償し得るものは何もない。彼は常にとても優しく、理解深く静かだった」。

(略)

全文:International Solidarity Movement


 ガザの美術家に招待されて家を訪ねたときのこと、彼は食卓で自慢そうに「母はシリア人なんだ」と語ったものだった。シリアは料理が旨いとされる。「母は素晴らしいシェフなんだ」と同義である。アラビア語を話す同じ文化圏、国際結婚の感覚はないだろう、と思う。

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2012年01月16日

2009年1月14日:ムハマド・ムーサ

2012年01月14日
パレスチナ人権センター

「ぼくたちは、その日何が起こったのか、互いに話しながら夜遅くまで起きていただろう、ぼくたちは兄弟だった、ぼくがなにかしら必要だったら彼らのところに行けば、彼らは手伝ってくれただろう」

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ムハマド・ムーサ (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月14日、21:00ごろ、イスラエルの航空機が、ガザ市南部のアッサブラ薬局に近いムーサの自宅を標的にした。イッズ・アッディン・ワーヒド・ムーサ、48歳、その妻、マイサラ・アフィフ・ムーサ、48歳、彼らの息子、ワーヒド・イッズ・アッディ・ムーサ、28歳、アフメド・イッズ・アッディ・ムーサ、27歳、モハメド・イッズ・アッディ・ムーサ、22歳、そして娘、ヌール・イッズ・アッディ・ムーサ、15歳が、攻撃で殺された。

攻撃に起因する肉体的な傷跡は、25歳のムハマド・ムーサに、まだはっきり目に見える。彼の右腕と脚の両方の神経と骨を損傷して、彼は残され、強く片足を引きずり、彼の家を飲み込んだ火事で、彼が火傷を負った場所を、突っ張る皮膚のつぎはぎを陳列する顔が示す。彼の傷は、地元の大理石工場で働き続けることを不可能にし、父親、母親、妹、兄弟3人を失った後の、彼の人生の断片を拾い集めることを不可能にしたまま、彼を残した。

(略)

感情的に、ムハマドは、戦争以来大きく変わった自身を見出し、事件以来、眠るのに苦労してきた。「初め、ぼくは夜、全く眠れなかった。ぼくは一晩中、目覚めて座り、朝しばらく眠ったかもしれない」。彼を気短にする、他には当たり前な、食事の準備、といったような基本的なことをするための支援を、彼は今必要とする。「何か自分でできないと、ぼくは酷く苛立って腹を立て、忍耐をいとも簡単に失う」。これは、ドイツでなら得られると医師に告げられたと彼が語る、負傷の治療に関する、彼が感じる無力感により度を増す。彼はまだ、脚の骨と神経、腹部に受けた榴散弾での負傷で、広範な治療を必要とする。

「ぼくは、家族の悲運をも知らず、エジプトで4ヵ月(そのうち2ヵ月半は集中治療で)入院していた。ぼくの姉妹たちは最初、ぼくの回復のため、彼ら皆が元気だと言っていた。ぼくが、彼らにもう帰宅できると伝えたとき、ぼくに皆死んだとの知らせを告げなければならなかった。ぼくは即座に後戻りして、行くことができるまで、集中治療でさらに2週間過ごさなければならなかった」。

(略)

全文:International Solidarity Movement

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2012年01月14日

2009年1月13日:ヒッバ・アンナッジャル

2012年01月13日
パレスチナ人権センター

「最初の2年、わたしは凌いだけれど、今年、母の喪失から多くを被ってきた。母親と共にいる、あるいは母親について話す少女たちと学校で会うとき、わたしはもっと母がいなくて寂しいと思う。わたしと共に彼女にいて欲しい」

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ヒッバ・アンナッジャル (17) がフザア村の自宅向かい側に座る (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月13日早朝、家屋破壊の2日間に続き、イスラエル軍は、高性能爆発物と白リン砲弾を使用し、フザア村とその周辺に砲撃を開始した。イスラエルのブルドーザ、戦車、狙撃兵が、村の端に陣を構えた。7:00時ごろ、兵士らは、フザア東部の住民たちに、その地区を離れ、村中央に向けて移動するよう命じた。白旗を掲げ、ラウィーア・アンナッジャル (47) は、女たち20人ほどの集団を率い、命じられたように離れようとした。集団が最初の角を曲がった直後、兵士がラウィーヤを射殺した。集団のもうひとり、ヤスミン・アンナッジャル (23) が、ラウィーアを道路から連れ出そうとして、銃弾2発で負傷した。ラウィーアの遺体を引き上げようとして、医療スタッフが撃たれ、近くの家に避難しなければならず、遺体を通りから引き上げることができたのは、10時間以上も経ってからだった。

「わたしには、母の頭に命中した弾丸の音がまだ聞こえる。兵士が、家の戸口に突き進んで彼女を撃ったとき、わたしは、彼女のすぐ傍らに立っていた。わたしは彼を見ることができた」と、ラウィーアの17歳の娘、ヒッバは、両腕で状況を描きながら語る。「通りで白い布を掲げているわたしの母を、なぜ彼らが殺したのか、その朝早く、家の屋上にいたとき、なぜわたしは殺されなかったのか、わたしは考え続けている」。ヒッバは、その日起こったことの意味が、まだ解けないでいる。

(略)

全文:International Solidarity Movement

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2009年1月12日:アヤド家

2012年01月12日
パレスチナ人権センター

「もうひとつ戦争があるなら、そこで死のうともわたしは動かない、わたしは二度と(同じ辛苦を)通りたくない」

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ムスタファ、アブデルカリーム、レゼック・アヤド (Photo: Palestinian Centre for Human Rights)

2009年1月12日、ガザ市、ゼイトゥーン地区のアヤド家の家は、イスラエル軍によりブルドーザで押しつぶされた。レゼック・アヤド、60歳、彼の妻、ユスラ、58歳、彼らの息子4人、ムスタファ、16歳、ムハメド、20歳、アブデルカリーム、26歳、ハリール、29歳、そしてハリールの娘ふたりは、攻撃の結果、ホームレスとなった。家族は、その地区への激しいイスラエル爆撃の結果、彼らの家の破壊の数日前、その地区を離れた。

レゼック・アヤドと彼の息子、アブデルカリームと話して、彼らの立ち退きを後ろに置いたことで、彼らが感じる安堵は明らかだ。今、家族の家に戻り - 2010年5月に再建を始め、2010年10月に引っ越しして - ふたりは、家族が今や安全で、再び、比較的安定していることを、喜び感謝している。「わたしは、あの時を思い出し、わたしたち皆がまだ生きていることを神に感謝するのみだ」と、レゼックは語る。

「ぼくたちは、着ていた服と毛布とマットレス数枚の他、何も持たずに家を離れた」とアブデルカリームは説明する、「ぼくたちは、ブルドーザで押しつぶされたとき、家と共にすべてを失った」。攻撃の余波で、全家族が、代わりの避難所を見つけることを強いられた。「わたしと妻は、ガザ市のアスクーラの親戚に身を寄せた」とレゼックは語る、「わたしの息子、アブデルカリームは、アッサムーニ地区に移動することを強いられ、ハリールは、妻や幼い娘たちと、テント村で2年間過ごす他、選択肢がなかった」。

レゼックの息子、当時17歳だったムハメド・アヤドは、家族の家の廃墟の中に小さな構造を建て、家と、彼がそこで飼っていたロバたちを見守ることができるよう、そこに留まった。

(略)

全文:International Solidarity Movement

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